映画『天安門、恋人たち』(原題:頤和園 英題:Summer Palace)
この映画は2006年制作の中国映画ですが、中国では現在まで公開されていません。
私は、この映画を今年開かれた「現役日藝生による映画祭」(シネマde憲法2020年11月23日紹介)で見ることができました。なかなか見る機会のない映画を探し出して、見る機会を作ってくれるこうした上映会にとても感謝しています。
映画は、ドキュメンタリーであっても劇映画であっても、時空を超えて、それぞれの生活の場で、それぞれの時代の中で、人々が何に悩み、何を喜びとして生きているのか身近に感じさせてくれます。まるでその人がすぐ隣りにいて、そうした悩みや喜びを息を弾ませて語り合ったかのように、共通の想い出をもてるかのようです。この映画は、まさにそうした映画でした。
(あらすじ)
1987年、故郷の街、図們(トゥーメン)から北京の大学に進学したユー・ホンは、チョウ・ウェイに出会い深く愛し合うようになる。彼によく惹かれるあまりいつか離れる日を恐れたユー・ホンは自ら別れを切り出す。そんな彼女の気持ちを理解できないチョウ・ウェイ。
学生たちの間では民主化を求める声が高まり、共産党への激しい抵抗活動が続いていた。1989年天安門事件を境にユー・ホンとチョウ・ウェイは離ればなれになってしまう。
10年を渡る歳月が流れ、ユー・ホンは中国各地を転々としながら、仕事や恋人を変えて生活をしていた。チョウ・ウェイもまた、中国を離れベルリンで暮らしていた。二人とも心の奥底では互いを忘れることができない。帰国したチョウ・ウェイは偶然ユー・ホンの居場所を知り、会いに行く。思わぬ再開に若き日の記憶が呼び起こされる。そして二人は、もう戻らない時の流れを知るのだった。(現役日藝生による映画祭「中国を知る」パンフレットより)
何かの映画評に「『天安門、恋人たち』はトルストイの物語のようだ。」とありました。たしかに映画を見た後に、そのようなしみじみとした感動がわき上がってきます。社会の変わっていく大きな時代の流れの中で、その波に翻弄される人間の内心の叫びを聞くような思いです。婁燁(ロウ・イエ)監督も「本作で描いたのは、急激な社会変化の中で見過ごされている、人々の心の中の混乱」と語っています。
感動の大きなクライマックスは、やはり天安門に駆けつけようと学生たちがトラックの荷台に次々と駆け上るシーンです。そのわき上がるような感情の盛り上がり。カタルシス。主人公のユー・ホンが女子寮の窓からそのトラックを見て、建物から飛び出してきてトラックを追いかける場面は圧巻です。
学生たちの燃えるような表情、突き動かされる情熱の実感が強いほど「天安門事件」のその後の実情を聞いている私たちは愕然とします。「この学生たちを、懸命に社会変革をめざし、声を上げた若者たちを、国家が無惨に殺してしまったのだ」と。その事実が何とも言えないやりきれない悲しみを想起します。権力に刃向かう、逆らう者を傷つけ、追い出してしまった。政治を行う人間は、その失ったものがどんなに大きなものであったかがわかっているのだろうか、と。
しかし、この映画は天安門事件そのものを描いた映画ではありません。むしろ天安門事件に至る、そして天安門事件の後を生きた若者たちの心象であり、彼らの生き様、その内心の揺れや葛藤を描こうとしたのでしょう。この映画を中国当局が国内での上映を許可しなかった理由の一つに「過激な性描写」が挙げられています。しかし私は、彼ら若者の、あの揺れ動く時代の中での心象、その揺れ動き、切なさ、激しさを含めてあのような表現が必要なものだったのだろうと思います。そしてそれは、やはりあの時代に「民主化」にめざめた「個人」を表現したものであったと思うのです。そして、挫折を味わいそれを昇華するのにその後の人生の多くの時間を費やしてしまったこの世代特有の行き場のない心象を描き出したものと思います。
映画は、私たちにもうひとつの現実と問題を投げかけています。こうした天安門に参加した、ものを真剣に考える若者たちを弾圧したことと同じことがその後も、そして今も続いているということです。この映画がいまだに中国で上映できないという事実です。そのことは、映画の中で描かれていることと二重の意味で、自由と人権への抑圧であり、表現への弾圧です。文化、創作というものに対する破壊です。時代を受け継ぎ、拓かせていく可能性への否定です。
「現役日藝生による映画祭『中国を知る』パンフレット」に「中国の政府当局が上映中止とする時にその理由を言わない。検閲の基準が明文化されていないので、このことがいっそう作り手を苦しませる」とありました。このことから私は先の日本学術会議委員任命拒否事件を連想しました。あの場合も任命拒否された委員6名の何がいけないのかを説明しません。そうした意に沿わぬ者や逆らう者を理屈でなく排除していく権力のやり方が、安倍政権、菅政権とこの国でも多発しています。
そうした検閲や排除が、対象となった表現の自由を侵すばかりでなく、文化や芸術、あるいはメディアなどの表現自体を萎縮させ、そして私たちにとって大切な自由と権利をじわじわと奪っていくと感じるのです。いったい何のために。
【スタッフ】
監督:婁燁(ロウ・イエ)
脚本:婁燁、梅峰(メイ・フェン)、英力(イン・リ)
編集:婁燁、ツアン・チアン
美術:リュウ・エイシン
音楽:ペイマン・ヤズダニアン
製作:耐安(ナイ・アン)、方励(ファン・リー)、シルヴァン・ブリュシュテイン
配給:有限会社アップリンク(当時はダゲレオ出版、イメージフォーラム・フィルム・シリーズ
2006年制作/中国・フランス映画/140分
【キャスト】
郝蕾(ハオ・レイ) :余紅(ユー・ホン=中国東北部、吉林省延辺朝鮮族自治州図們市に住む少女。北清大学合格を機に北京に上京する)
郭暁冬(グオ・シャオドン):周偉(チョウ・ウェイ=: 北清大学の学生。余紅と知り合い、恋人となる)
胡伶(フー・リン):李緹(リー・ティ=北清大学の学生。女子寮で余紅と知り合う)
張献民(チャン・シャンミン):若古(ロー・グー=李緹の恋人、留学先のベルリンから帰国した。周偉を余紅たちに紹介する)
崔林(ツイ・リン):暁軍(シャオ・ジュン=余紅が図們にいた頃の恋人)
曾美慧孜(ツアン・メイホイツ):冬冬(トントン)
白雪雲(パイ・シューヨン):王波(ワン・ボー)