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憲法9条をめぐる攻防とこれからの課題(1)

2011年1月3日

内藤功さん(弁護士・元参議院議員)


* 2011年新年にあたり、法学館憲法研究所・伊藤真所長が内藤功さんにインタビューし、憲法9条をめぐる歴史や今後の課題について語っていただきました。

(伊藤)
 新年おめでとうございます。
 昨秋から東アジアの安全保障をめぐって、新たな緊迫した情勢が展開しています。いま日本には、戦争放棄・戦力不保持の憲法の理念にもとづく外交努力が求められています。
 そこで、日本国憲法9条を裁判の場で具体化するたたかいの先駆者である内藤先生から、まずはその経験をご紹介していただきながら、9条の意義を確認したいと思います。

画期的な砂川事件第一審判決

(内藤さん)
 憲法は国家権力を縛るものであり、裁判を通して国家権力を縛る規範=裁判規範としての役割を果たしてきました。私が最初にそれを実感したのは、砂川事件でした。
 この事件は、米軍基地の拡張のための測量が行われていたところに、抗議のデモ隊がその柵の中に進入したという事件でした。デモ隊のメンバーは安保条約にもとづく行政協定に伴う刑事特別法2条の立ち入り罪で逮捕され、起訴されました。
 この事件の裁判は、1959年3月30日、東京地裁の伊達秋雄裁判長による判決が出されました。その核心は3つ、次のことを明らかにしたことにあります。
 第1、在日米軍は戦略上必要と認められる場合は日本区域外に出動できる、したがって日本は直接関係のない戦争に巻き込まれる危険性がある、これは「政府の行為によって戦争の惨禍が起こることのないように」という憲法前文に反する、ということ。
 第2、駐留米軍は日本国が施設・区域・費用を提供して協力して駐留しているのだから、それは9条2項のいう「陸海空軍その他の戦力の保持」にあたる、ということ。
 第3、一般国民が通常の立ち入り禁止区域に立ち入る場合は軽犯罪法による科料または拘留にとどまるのに、米軍基地に入った者だけが刑事特別法違反で懲役2年の刑が課せられる、これは米軍基地への立ち入りを重く処分するものであり、そのような重い保護に合理的な理由はない、ゆえにそのような取扱いは憲法31条違反である、ということ。
 この判決の後、マッカーサー駐日大使がただちに藤山外務大臣を訪ね、跳躍上告するように勧め、最高検が跳躍上告に踏み切ることになりました。
 裁判は最高裁に移り、安保条約と憲法の関係を正面から審理されることになりました。当時の私は弁護士4年目でしたが、私たち弁護団は一生懸命に勉強して、第一審の伊達裁判長の判決を全面的に擁護する立場で弁論を展開しました。しかし、最高裁の判決は破棄差戻しで、審理は東京地裁に戻されました。
 ちょうど1959年から1960年にかけては安保改定反対の大闘争が展開されていた時期です。当時の国民の中には、戦争は嫌だ、安保は危険だ、という考え方が満ち満ちていたので大きなたたかいになったのですが、私たち法律家のたたかいもそれをサポートすることができました。この時から、私は、憲法は裁判規範であるとともに国民の行動の規範なのだということを確信するようになりました。

軍国主義とたたかう面魂(つらだましい)

 1962年、北海道で恵庭事件が起きました。野崎健之助さん一家が牧場を営んでいたのですが、そこは自衛隊の大演習場の隣接地でした。米軍機、自衛隊機が牧場の上空を急降下してはまた上昇する訓練が繰り返され、それが一日に1000回を超える日もありました。家族は難聴になったり、胃を悪くしたり、大変な被害を受けました。1960年代には、陸上自衛隊の大砲の実弾射撃が始まりました。牛は音に敏感ですから、牛の被害も続出しました。そこで、野崎さんは防衛庁に抗議をしたのですが、埒があきませんでした。1962年12月11日、野崎さんの二人の息子さんが演習場に入っていって自衛隊の中隊長に抗議しました。しかし、演習は続きました。そこで野崎さんは通信線を切ると通告し、切ったのです。
 はじめ野崎兄弟は器物損壊罪で捜査を受けました。ところが野崎さんの検察官送致の段階で、罪名が自衛隊法違反に切り替えられたのです。検察官は自衛隊の「防衛の用に供する物」を損壊した、ということを問うことにしたのです。私たちは、これは政府が自衛隊合憲の最高裁判決をとろうとしているからだと判断しました。政府はその前の砂川事件で、安保条約が違憲かどうかは高度の政治問題だから、裁判所は審査しないという最高裁判決をとりましたから、自衛隊についても最高裁までいって合憲判決をとろうと意図していると考えたのです。そこで、私たちは恵庭事件の大弁護団を組織することにしました。弁護士が200数十名参加しました。東京からは私と佐伯静治・六川常夫・渡辺良夫の4人の弁護士が札幌に通うことになりました。
 私はある先輩から"この事件は最高裁で自衛隊違憲とか無罪をとることは難しいよ"と言われ、そして、"野崎さん一家は自衛隊の武力に恐れないでたたかった、いろいろな抵抗をした。この野崎さん一家の面魂(つらだましい)を法廷内外で明らかにする、多くの国民が軍国主義の復活は危険だと思っており、軍国主義の復活に対してたたかっている野崎さん一家の姿を明らかにすることが弁護団の任務ではないか"と言われました。私は、これはもはや弁護士の任務というより、運動の任務だと思いましたが、この先輩の言葉で目から鱗が落ち、割り切れました。当時私は30代でしたが、以降この恵庭事件、長沼事件のために約10年間札幌地域に通うことになりました。

三矢作戦研究で追及、裁判所は憲法判断回避 − 恵庭事件

 恵庭事件の裁判での私の担当は、自衛隊が違憲であることを証拠により論証することでした。それは当時難しいことでしたが、私は、そのためには何よりも自衛隊が危険なものだということを証明していく必要があると考えました。一つは、自衛隊はアメリカ軍と一体化し従属した軍隊だということ、二つ目は、自衛隊は攻撃的な訓練をし、攻撃的な装備をすでに持っており、将来さらに拡大されようとしている、つまり、自衛隊はもはや自衛のためのものではないということ、三つ目は、たとえば野崎さんに対したように、自衛隊は国民を敵視し、場合によっては治安出動で弾圧するのだということ、この三つを立証すれば、裁判官は自衛隊が軍隊であるということを認め、違憲と判断する可能性が生まれてくるのではないかと考えました。
 しかし、この構想はなかなかまとまりませんでした。そのような中で、1965年2月10日、私は熱海での学習会に行くために東京駅で新幹線に飛び乗ったのですが、その時新聞の夕刊を見たら、衆議院予算委員会で社会党の岡田春夫議員が三矢作戦研究について暴露した記事が載っていました。私は、これこそがいま自分が求めている証拠資料だと思いました。これだ!と思いました。三矢作戦研究は陸海空の幕僚部の制服幕僚が防衛庁に集まって実施したものです。これは朝鮮半島の軍事境界線で武力紛争が起きた場合を想定した作戦についての研究でした。米軍が出動し、日本の自衛隊がその後方支援をする、さらに状況によっては米軍の支援をして樺太・千島を占領する、同時に国会で有事立法をつくって実施する、というような内容でした。これは重大なことだと、私は岡田議員と連絡をとり、資料をもらい、岡田議員には衆議院予算委員会の会議録にその資料を掲載してもらうようお願いしました。会議録に掲載されればその資料は会議録と一体になり、それは裁判所に提出する証拠としての能力も高くなります。このことは実現し、岡田議員が提示した資料は国会の会議録の一環として掲載されました。そのような工夫をしました。
 私は、1965年3月3日の公判の冒頭にこの資料を検察官に提示し、これでも自衛隊は合憲だと言えるのかと詰め寄りました。そして、まずこの三矢作戦研究の統裁官をつとめた統合幕僚会議事務局長の田中義男陸将を証人に呼ぶよう求めました。これでようやく憲法裁判への入り口が開けたのです。
 私たち弁護団は、このように三矢作戦研究によって楔を打って、裁判をたたかうことになりました。そうしたら、さすがに検察官も、裁判所も、これは大変なことになる、と思ったようです。そこで裁判所は、弁護人側申請のその余の証拠はすべて却下するとしました。その後の裁判の展開には紆余曲折がありましたが、最終的に判決(1967年3月29日)は、通信線の切断は野崎さんを罰するための構成要件に該当しない、つまり通信線というものは防衛用の器物にはあたらない、機関銃とか戦車のように直接人を殺傷するものではない、という理由で無罪にしたのです。
 そういう論法で裁判所は憲法判断を避けたのです。これは全く意外なことでした。裁判所は、私たち弁護団が公式に主張したわけでもない点にしぼって、独自の判断をしたのです。そうして憲法論争から逃げたということです。野崎さんは無罪になったわけですが、裁判所というものは本当に油断のできないものだということを痛感しました。

長沼事件、百里事件へと9条の精神が広がる


 恵庭事件で、私たち弁護団には、無罪をかちとり確定したので、これで勝ったという気持ちと、違憲判決がとれなかったのは残念だという両方の思いがありました。そのような中で、長沼事件の裁判が始まったのです。長沼町馬追山の対空ミサイル基地の建設にあたり、私たちは自衛隊は憲法違反だということを正面に掲げてたたかうことになりました。恵庭事件の裁判終結から2年余でしたので、長沼事件の裁判の支援団体も弁護団も恵庭事件の態勢が継続され、さらに増強されました。そして、恵庭事件で私たち弁護団が研究・主張したことが長沼事件の判決で実を結ぶことになりました。
 長沼事件の裁判では、福島重雄裁判長が画期的な判決を出しました。
 その特徴の第一点は、明確に自衛隊が「陸海空軍」という「戦力」に該当し違憲だと言ったことです。
 二点目は平和的生存権です。馬追山という山にミサイル基地ができると、有事のときには最初に攻撃される危険がある、したがってその周辺住民には平和的生存権を根拠に訴訟を起こす利益はあるということです。これは基地闘争の中で、今後もずっと使える論理です。
 三点目は、憲法9条には裏づけが四点あるとしたことです。一つ目は、国内的に平和で民主主義的な国家として進むことにより、国内的に戦争の原因を発生させないこと。二つ目は、平和的な民主主義国家としてあゆむわが国を脅かすものはいないという確信。三つ目は、世界には戦争はやらないという風潮が広まっているということ。四つ目は、国際連合という紛争解決の組織ができているということ、この四つです。この判決が、9条は単なる理想ではなくて、国内・国際政治、および国際連合憲章による裏づけがあるといったことは非常に大事なことだと思います。
 私はこの長沼事件一審判決は今に残る宝物だと思います。ある方は、「長沼裁判では、裁判長自身が平和のうちに生きる権利を実践した」と言いました。
 百里基地訴訟は1958年から約31年間たたかわれました。判決主文は全部、自衛隊違憲を主張した原告の負け、請求棄却ですが、この裁判で重要なことは自衛隊の実態調べを詳細に行ったことです。恵庭・長沼事件よりももっと詳しく長時間にわたり、証人尋問をやりました。運動の面では、地元農民たちの粘り強いたたかいがありました。百里基地の航空機の誘導路は"くの字"に曲がっているのです。誘導路は第二滑走路の役割を果たすものなので、通常ではまっすぐでなければならないのですが、誘導路の途中に、基地に反対し土地を売らない農民の民有地があり、"くの字"に曲がっているのです。
 いま、その土地にお稲荷さんをおまつりしあります。そこには平和を求める農民たちを支援する日本山妙法寺の塔もあって、支援団体によって平和公園になっています。ここでは毎年2月11日に初午祭りが行われます。平和稲荷の扉を開きますと金属の板に憲法9条が彫ってあって、まつられています。そこで集会をやったあと、お神酒をいただいてお祝いをします。平和公園と平和稲荷と初午祭が残っているということが重要です。裁判では棄却されましたが、9条でたたかったという当時の精神が生きているということは、砂川・恵庭・長沼とともに9条の成果だと思います。

続く

◆内藤功(ないとういさお)さんのプロフィール

1931年生まれ。弁護士として、砂川事件、恵庭事件、長沼事件、百里事件の基地訴訟にたずさわる。
1974年からは参議院議員を二期務める(日本共産党から)。
現在、日本平和委員会の代表理事も務める。
イラク派兵違憲訴訟全国弁護団の顧問も務める。
最近の著書に『よくわかる自衛隊問題』(学習の友社)がある。


◆伊藤真(いとうまこと)

1958年生まれ。弁護士。
法学館憲法研究所所長。伊藤塾塾長。
『伊藤真の憲法入門』(日本評論社)、『憲法の力』(集英社新書)、『憲法の知恵ブクロ』(新日本出版社)など著書多数。





 
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