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1人1票と多文化主義法制度

2011年9月5日


殷勇基さん(弁護士)


1人1票と民主主義

 日本国憲法では,立法,行政,司法のすべてが多数決原理によって動いている。国の基本方針を決める国会では,@出席議員の多数決で法律を制定し(憲法41条,56条,59条)、A同じく多数決で予算を承認し(73条5号,60条、56条),B同様に内閣総理大臣を選ぶ(67条,56条)。内閣は国会の多数決で選ばれた内閣総理大臣が組閣する。裁判官は内閣と内閣総理大臣が選ぶ(以上,伊藤真「「1人1票」実現に向けて」法学館憲法研究所報5号)。国会⇒内閣⇒裁判所,となっている。ここで出発点になっているのは国会議員だが,言うまでもなく国会議員は国民が選挙で選ぶ。国民⇒国会⇒内閣⇒裁判所だ。「国民主権」だ。なのに,実際には1票に格差があり,1:3とか,1:6などになっているから問題だ。実際には「少数決」のようになっている。
 これは,国民国家における代議制民主主義のあり方に関する問題だ。

多文化主義法制度

 とはいえ,1人2票が絶対にダメだとされているわけでもない。もちろん,昔の差別的な社会ではそうだったことがあるだろうが,現代の民主主義社会でもそうだ。
 諸外国では,少数派や先住民族に,立法府における代表を保障しているところもある(多文化主義法制度「キムリッカ」)。理論的には例えば,人口比が4:6なのに議席は5:5になるようにしたり,人口の1%しかいない民族に5%の議席を配分したり,ということだ。
 また,例えば,アメリカでは,1人1票の下院とは別に上院がある。上院は,州の大小にかかわらず,1州2名の上院議員だ。連邦国家であるとはいっても、アメリカも(もちろん)国民国家だ。国民国家であっても,ここでは1人1票は貫かれていない。これも,国民国家における代議制民主主義のあり方に関する問題だ。
 さらに,アメリカには,州が50個ある上,「インディアン」(ネイティブ・アメリカン)の「国家内国家」(⇒「自治区」のようなものだが連邦政府と条約を締結しているところもあるからその意味では「国家」的な要素もある)も多数ある(鎌田遵『ネイティブ・アメリカン』)。州については,連邦が決めた法律でも通用しないものがある(というより,州などに関わる一定の分野については,そもそも連邦であっても法律を作れない)。
 これもまた,国民国家における代議制民主主義のあり方に関する問題だ。

連邦国家と国民国家

 もっとも,以上は連邦国家のことだから日本とは事情が違う,という意見もありそうだ。例えば,アメリカ上院は「州の代表」だが,日本は「全国民の代表」だから,というわけだ。それはそうだ。日本の現在の憲法では,「県の代表」としているわけではない(憲法43条1項。というより,そもそも「県」についての言及がない。憲法92条〜95条)。だから,日本の現憲法の下では,各県ごとの代表というのがむずかしいのはそのとおりだ(44条但書もある)。だから,1人1票についての憲法の規定が,アメリカと日本とでは異なるというのはそのとおりだ。日本の各「県」(の多く)が,多文化主義法制度が前提としている「文化」の実体を(少なくとも現在では)有していないのではないか,ということもある。
 それどころか,これまで衆参両院で,1票の価値の扱いについて,地方への厚い配分という政策は一貫していなかった。実際にはバラツキがあり,議席の配分比率が多い地方も,少ない地方もあった。結局,日本では多文化主義法制度を採用することは憲法上の問題もありそうだし,そもそも実際の「1人0.3票」は多文化主義どころか,地方の発言力を実現しようと企図した結果でもなく,現状を放置し続けただけではないかといえそうだ。
 以上のことは確認した上で,ただ,1人1票が「国民国家における代議制民主主義」では常に貫かれているのではなく,貫かれる場面が限定されていることを確認するのも重要だと思う。
 仮に,将来,東アジア共同体や東アジア連邦ができて,そこで連邦議会をつくった場合(なお,EU議会は既にある),連邦議会の議員選挙では1人1票となるだろうか。各民族がもっと「融けた」後ならよいだろう。例えば,「日本民族」と「中国民族」が「融合する」。もっとも,そんなことが「暴力」を使わないで近未来に可能だろうか。そして各民族が「融ける」前なら,1人1票だと,一定の票(例えば中国。もっとも、それは「中国票」なのか「漢族票」なのか)が常に多数を占めてしまうことになるとして,それ以外の人たちは1人1票に反対するか,1人1票の議会とは別の議会も作るように要求することが予想される(そして,「暴力」を使わないで「融けていく」ためにはこういう方法でいくしかないのではないか)。
 これに対しても,「これは国家連合などの話で,国民国家の場合とは異なるのでは?」という疑問がありそうだ。それもそうなのだが,そうでもないところもある。このような疑問は,「連邦国家や国家連合や国家共同体と,国民国家とは異なるのではないか」という疑問だ。連邦国家などは国民国家への過渡期的な国家だ,将来は(本来は),1人1票が望ましい,という考えが隠れていそうだ。しかし,連邦国家であっても国民国家だ。
 でも,国家連合や国家共同体は国民国家ではないじゃないか? それはそうだが,国民国家・連邦国家と、国家連合などの差は,ここでは相対的なものに過ぎない。色々(違う)ヒトがうまくやっていくためにはどうすればいいか,ということだ。国民国家はそのためのアイデアのひとつだ。ただ,国民国家は国民の同質性を強く要求しがちだ。それでも,国民国家と1人2票は両立する。うまくやっていくために1人2票をあえて認める(べき)場合もあるわけだ。1人1票,100人中51人の賛成で何ごとも決める,ということでよいか,ということだ。51人が決めたことに残りの49人が従わなければならないのはなぜだろうか(「なぜ多数決か」)。
 現代の民主主義の諸国では,多数決と少数決の組み合わせだ。日本の現憲法も大きく見るとそうだ。例えば,裁判所の合憲性審査権というのも一種の少数決だ。

国民国家体制

 いま地球には200くらいの国家がある。これが国民国家体制だが、これを一種の巨大な「多文化主義法制度」とみることもできる。すべての国家は,地球規模の「国家内国家」、巨大な「自治区」とみるということだ。この「自治区」は,地球規模での1人1票を拒否する。つまり,地球規模の「多数決」,「数の支配」を拒否して,「自治」,「自決」を行っているわけだ。少数民族の「自決権」が正当化されるなら,国民国家の「自決権」も正当化されることになりそうだ(歴史的には国民国家の自決権⇒少数民族の自決権の順だろう)。もちろん,多数決と少数決が組み合わされているということと,多数決が貫かれるべき場面で多数決が貫かれていないということとは,(言うまでもなく)別問題だが,上記のとおり、立法府にも多数決を貫かない民主主義憲法も多い。つまり,現代の民主主義は,「多数決」,「数の支配」を拒否する権利を一定程度,認める。とはいえ,「多数決」,「数の支配」を拒否する権利を自分に認めたなら,その権利を他人にも認めざるを得ない。

◆殷勇基(いん ゆうき)さんのプロフィール

1996年弁護士登録(東京弁護士会)。東京弁護士会・憲法問題対策センター委員。




 
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