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今週の一言

 

「一人ひとりがかけがえのない個性と持ち味を伸ばし、出番が求められる社会を」

2012年4月9日


大田堯さん(東京大学名誉教授)

教育の目的 ― 石川啄木の歌

――先生は長年に渡り「教育とは何か」というテーマを研究し、また実践して来られました。94歳になられた現在も勉強会や講演など様々な形で教育に関わっていらっしゃいます。先生のご活動の一端を描いた映画は、昨年の「今週の一言」「かすかな光へ」でも紹介させていただきました。端的に伺います。教育の目的は何なのでしょうか。
(大田さん)
 石川啄木の「一握の砂」の中に、「こころよく 我にはたらく 仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」という歌があります。改訂された教育基本法の第1条にも、「教育の目的」として、改訂前と同じく「教育は、人格の完成をめざし」という文言が残っています。「人格の完成」とは、この歌のように、一人ひとりが自分の持ち味を活かし、どんなささやかな仕事であっても、社会的に値打ちがあるものとしてこころよくできるようになることです。皆がこの目的を達成できたら、世の中は全く変わるでしょう。しかし、現状では、大部分の人は会社に労働者として雇われ、経営上の部品の一つである商品でありコストです。「こころよく働ける仕事」はなかなか見つけられません。

生きものとしての人間

――その教育が対象とする人間とは、そもそもどのような存在なのでしょうか。
(大田さん)

映画「かすかな光へ」より (C)ひとなるグループ
 あらゆる生き物は皮膚、甲羅などで外界と遮断し自分の命を守っています。ということは、生物学的に「自己中心」にできているということです。それと同時に、生きものは空気を吸ったり、太陽の光を浴びたり、他の生きものを食べたりしないと生きられません。ですから、他者に依存しています。このように、生きものは生命個体自体として、内向きの「自己依存」と外向きの「他者依存」という逆方向の力を同時に持っている矛盾した存在なのです。
 生きものは、この二つの力をうまく調整して生きています。物質のレベルでは新陳代謝がそうです。総ての生きものは、食物でも呼吸でも、欲しいものを外から取り入れ、それを体内器官でエネルギーに変え、要らない物は排出しています。
 脳のレベルでは情報を摂取し、必要なものは覚えておいて、要らないものは忘れ、感知的エネルギーを蓄え、外の行動に対応していきます。痛いと感じたり、気持ちいいと感じるのも脳で、内と外とを最終的に総括して統制しているのは脳という情報系の器官の仕事です。これは人間に限らず他のどの生物も同じです。皆それぞれ外的環境に適応するように自分を創っています。生きものの種が外的環境に対して長い時間をかけて適応し、変化することは進化といわれています。脳ができた生物の登場は6億年位前だと云われていますが、それ以前でも細胞の中のDNAがそのような適応をしながら時間をかけて進化してきました。
 人間の場合は、母親の胎盤から外に出ると、社会的文化的胎盤が待ち受けています。赤ちゃんはお母さんの乳を吸い、肌をなめたり触ったりすることから学習を始めて、自分を発達させています。実は今日の脳科学でも、教育の過程での記憶や学習が、脳内でどんな仕組みで行われているのかは、まだ明らかになっていません。
 ですが、学習とは、外からの情報を獲得し、感知エネルギーを蓄えていく循環系としての作業であり、それが学習力です。普通「学力」というと学校で勉強したものと捉えられがちですが、学校は社会的文化的胎盤のほんの一部です。
 それゆえ、人間が蓄える情報は非常に多様で複雑です。人間は四六時中、内向きの力と外向きの力とを調整しつつ行動していて、格別にその選択肢が発達した生きものです。これが教育から見た人間の特徴のように思われます。

教育とは学習し変化することを助ける演出である

――そのような人間に対する「教育」を簡単に説明いただくことは難しいと思われますが、先生のお考えを伺わせてください。
(大田さん)
 私たちは、自然という舞台のうえに創りあげた社会的文化的胎盤の中で生きています。社会や文化があり、それを学習し続けなければ生きられません。生きるのに必要な社会や文化についての外的情報の提供を受けなければなりません。先ずそれを受けとめる学習力というものがあって、それを助けるのが教育です。「教育」は人間に固有なものであるかどうか断定はむずかしいのですが、社会と文化という人間自身の創造した環境に生まれる以上、それに適応するように、人間自身が創り出したものです。これに対して、学習は生命の発生とともに、あらゆる生き物に内在する生活力の一部であるのです。30億年の生命の歴史に内在するものです。
 ところが、「教育が先ずありき」という考え方が世の中では支配的です。教育によって人間を変えるというのは、政権や国がいつも考えることです。
 しかしながら、科学的に検討すると、一人ひとりの子どもの生命は皆30億年の歴史を背負い、ユニークな遺伝子をのせたDNAという設計図を持っています。そして、外からの刺激に適応して変わるのが人間です。でも、一人ひとりが皆違うのですから、教えられても自己流儀に変わるほかありません。生命個体としては、大田は大田です。変わりながらもその人流儀にしか変わらないというのが人間という生き物の存在です。
 そうすると、教育という仕事は、本来一人ひとりの違いに応じてその欲求(ニーズ)に寄り添いながら、その人に必要な情報を提供して、その人が変わることを助けていくという性格のものです。 学校の教室で子どもたちを束にして同じことを教えても、受け止め方や引っかかる所は皆それぞれ違います。ですから、一人ひとりの変わり様というものに目配りを行っている教師が、その子その子の持ち味を励まし、その子その子の出番を大事にしていくという姿勢が求められます。その意味で教育は、端的にいえば、「演出」でありプロデュース、つまりアートと云えましょう。
 
――憲法学では、教育を受ける権利の内容は子どもの学習権を保障したものと解されていますが、お話しを伺ってその意義が深まりました。
(大田さん)
 ユネスコは1985年に成人会議で学習権宣言をしております。学習とは、ものを食べたりして生存した後から獲得するものと考えられがちですが、ここでは、学習権は生存権そのものの一部だと理解されています。今は学習権という言葉だけが飛び回っていますが、生きものの生存の在り方から説明しなければなりません。生きものにも学習があると考えてもいいくらいです。学習はそれほどに生命にとって根源的機能であり、人間も生物である以上、学習力の存在を前提として教育といういとなみが行われるはずのものです。

教育の私事性について

――ところで、「教育は本来私事である」という考え方があります(教育の私事性)。これについてはどのようにお考えでしょうか。
(大田さん)

映画「かすかな光へ」より (C)ひとなるグループ
 その言葉は、国家権力は私たちの学問や思想信条など人間の内面にまで干渉し支配してはいけないという意味で使っているのだと思います。教育活動は、直接に子どもの内面に働きかける行為ですから、子どもの内面からの学びをはげますことに力点がおかれなくてはなりません。その意味からすると、親と教師もその子の私事性に対して敏感であることが必要です。
 「私事性」という言葉は誤解されることもあります。子どもは親の私物であるということで、親は子どもを自分の思いどおりに育てようと思うものです。
確かに、子どもは親の遺伝子の一部を受け継ぎますから、親のものと云える側面がありますが、子どもの遺伝子には両親のDNAが混じっており、親とは違うDNAの構成をもっています。妊娠は異物にお腹を貸すということです。胎児も自分流儀に生きています。生まれ出ると、親とは違った社会で生きなければなりません。子どもは次の社会の担い手であり、社会全体のものでもあるのです。
 このことを鮮明に表しているのが障害児の誕生です。生んだお母さんは、自分が生んだことで自分の責任を強く意識します。しかし、父母それぞれの30億対ものDNAが混じり合うのですから、どのような子どもが生まれるかは偶然以外の何ものでもありません。障害児を生んだのは親の責任だと親も社会も考えると、親は生きる術がなく、ときに行く末の不安から心中することになりかねません。偶然ということは生物界では必然と云えます。ですから、社会全体で世話をしなければなりません。
 子どもはDNAや生まれ出る環境も選べません。そして、どのような状態で生まれるにせよ、種の歴史を継ぐ大切な新しい個体です。ですから、みんなのものであり、きちんとした学習権や社会保障の権利が保障される世代として処遇されることになるかと考えます。

――教育はパブリックなものだということですね。
(大田さん)
 公共はイコール国家ではありません。民主国家では主権は人々にあり、主権者みんなのもの、みんなのためのもの、みんなによっていとなまれるものということでしょう。

学校教育について

――日本の教育の現状をどうご覧になっていらっしゃいますか。学校教育を中心にお伺いします。
(大田さん)
 学校は社会的文化的な胎盤の中の一施設に過ぎません。ところが、日本は、近代化を急ぐ過程で、学校で近代社会の牽引役となる人材養成を、主として学校に求めることになりました。そのため学校信仰が非常に強いですね。欧米に比べて学校にとらわれ、学校で社会的地位も決まるように思われています。不登校などになると大事(おおごと)だということになります。いい学校、いい大学に行くために勉強しているようなものです。啄木の「こころよく…」の歌や「人格の完成」とは関係ありません。人間教育の観点から離れています。
 したがって、学校教育に対する政権の要求が大変強い国だということです。「そのときそのときの国益に沿う人を育てる」というやり方では人は育ちません。育つのを助けることはできますが、「育てる」という大上段な考え方が教育を歪めています。
 大阪市の橋下市長も「…を持った人材を育てる」と云っています。「人造り」という言葉も一時はやりましたが、人は造れません。一つの細胞も造れないのに、なんで人間が造れるのですか。
 今はテストで人にレッテルをつける点数順番の社会です。人間の学力を数値で表すのはそもそも不可能なことです。個性はそれぞれ皆本質的に違っています。それに順番が付けられますか?同じ50点でも間違え方が違います。人は皆違うことを前提にして、その人にふさわしい手助けをすることが基本的人権の根本精神です。それを無理に点数で画一的に順番を決め、人生まで決めてしまうという実に機械的な対応をしているのが今の教育の支配的な動向だと思います。良心的な教師は、行政介入の困難な中でも一人ひとりの子どもを大事にする教育をやろうとしていますが、国の施策は変わりません。
 そのため、子どもが犠牲になっています。医者と学校の教師とどちらがたくさんの子どもを殺したでしょうか。自戒を込めてのことなのですが…。
 日本の学校には、「書かせる。読ませる。立たせる。座らせる。」という使役動詞が多いです。相当いい実践をしている先生でも、子どもに向かって「何々させる」という言い方をしています。使役動詞の頻発は、権威のある上の者が下に伝えるという意識が内在しています。極端に言えば、教え諭して変えるという教育観がまだ相当支配的な風潮です。

センスないし感性としての基本的人権を

(大田さん)
 この点、英語には「Could you like?」というふうに、couldや wouldなど相手の意思を聞きただしたうえで何かしてもらうという助動詞があります。日本にはありません。言葉づかいの中には、教育の固定観念がしのびこんでいます。大人と子どもの間でも、社長と従業員の間でも、日常的な人間関係において、下の者は弱者として、あるいは未熟者として上下関係で扱われています。子どもが「未熟」ということは、大人よりももっと可能性を持っている豊かな存在だということです。大人が子どもから学ばなければならないこともたくさんあります。
 日本では人間関係そのものの中に、センスとしての基本的人権が定着していません。基本的人権の知識はあっても感性をふまえた認識が育ちかねています。
 憲法は誰かが作ってくれたものだという受け止め方が濃厚です。国民が創って国家権力を監視しているものだという考えは非常に薄いですね。上に何かやってもらうのを待つという姿勢はその現れです。下からの積極的な意思で政府を動かすという関係にならなければ、と思います。
 子どもの私物観とともに、ここに日本の社会が残している古さが見られます。
 学校の話に戻せば、人の学力への学校の影響力は云われるほど強くはありません。大学の講義でも習ったことは、卒業後はあまり覚えていません。自分流儀に勉強した部分だけが残ります。その自分流儀、独学が基本です。

職場での教育とは

――先生はご著書「教育とは何か」の中で、人類の学習の重要な部分はそれぞれの仕事を通して行われてきた歴史があることに鑑みて、職場での教育の重要性を指摘しておられます。
(大田さん)
 教育という仕事は本来1対1の個の問題であり、人格と人格との響き合いの中に成立します。響き合いは、相互の信頼感がある中で感性と感性との間に成立します。社長と従業員とが仕事の部署はちがっても、互いに信頼感をもって人間としてひびき合って仕事をする。それが基本的人権とか人間の尊厳を相互に尊重し合うということの意味だと思います。
 集団教育というレベルで考えると、その人その人の得意な所を評価して集団の中で出番を保障するということです。できない事よりもできる事を評価してそれぞれ違った持ち味を育てていくことが大切です。そうすると、一人ひとりが満たされて心地良くなります。これはドラマだと思います。今学校では特定の教科が嫌いになるために教えているようなところがあります。人間を大事にするためには、好きな事を伸ばしてあげるということが重要な視点だと思います。

戦後の初心、憲法の「人間の尊厳」に帰ろう

(大田さん)
 今日お話したことは、人間の尊厳とか基本的人権に関する基本的なことです。このことは平和の問題につながります。平和を創るとは戦争をしないことだけではなく、心から喜びをもってお互いに特徴を生かして支え合って行く社会を創ることです。これが私の関係する映画の「かすかな光へ」の主題です。かすかな光ですが、それを目指してこつこつやりましょうと訴えています。「民主主義」とは、議会を作って選挙をして政治を行うことだけではなく、これまでに申し上げたことを積み重ねて社会の体質を変えていくことです。子どもや従業員との付き合い方をはじめとして命と命の絆を創ることが世直しになるのではないでしょうか。
 今、東日本大震災の「復興」が盛んに語られていますが、病気に陥っている地球全体が変わらなければならない問題です。地球全体が変わる第一歩は、私たちで云えば、戦後の初心である憲法が示している「人間の尊厳」に帰ることです。儲け本位の経済成長の視点では真の復興にはなりません。これまでと同じことの繰り返しです。前向きに考えて踏み出した方が楽しいです。
 まとめますと、一人ひとりが違うということ、その違う人間同士が関わる中で自分を変化させ成長させるということが、生物としての人間から見た基本的人権だと思います。

――長い時間たくさんのことをお話しいただき、大変ありがとうございました。
 (2012年3月30日)

◆大田堯(おおた たかし)さんのプロフィール

1918年、広島県生まれ。1941年、東京帝国大学文学部卒業。東京大学教授、都留文科大学学長、日本教育学会会長などを歴任。教育史・教育哲学専攻。東京大学名誉教授、都留文科大学名誉教授、北京大学客座教授。
著書 『教育とは何かを問いつづけて』(岩波新書)、『教育とは何か』(岩波新書)、『地域の中で教育を問う』(新評論)、『子どもの権利条約を読み解く』(岩波書店)、『生命のきずな』(偕成社)、『歩きながら考える―生命・人間・子育て』(一ツ橋書房)、『〈はらぺこあおむし〉と学習権』(一ツ橋書房)、『かすかな光へと歩む/生きることと学ぶこと』(一ツ橋書房)ほか多数


* 法学館憲法研究所は中高生向け映像教材「憲法を観る」の製作に協力し、普及をすすめています。ご案内します。


 
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