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今週の一言

 

田中正造・立憲政治への熱い思い
      ――没後100年に寄せて――

2013年10月14日



飯田進さん(田中正造を現代に活かす会事務局長)


 2011・3・11東日本大震災、とりわけ東京電力福島第一原子力発電所の事故以来、鉱毒加害の足尾銅山操業停止を掲げてたたかった被害農民の運動と、それを指導した田中正造の思想についての関心が高まっています。
 田中正造は「真の文明は山を荒さず川を荒さず村を破らず人を殺さざるべし」と日記に残しました。亡くなる前年、1912年6月の日記です。この言葉は、いま、多くの人たちによって、震災からの復旧復興、原発廃止、そして日本の政治、経済、社会の道標として受け止められ、用いられています。
 フランス革命の前夜に、ルソーが近代文明を徹底批判したことで民主政治の展望を産み出したように、この正造の批判が新しい日本のあり方を照らし出す灯のように思われるのはまさに当為と言うべきものでしょう。
 さて、そのような田中正造への関心の高まりの中ですので、今日的な極めて重要な問題とも関って、正造の憲法認識にも注目していただきたいのです。


田中正造(1841〜1913)と「真の文明は……」
の日記(明治12年)
 正造が「憲法」の語を初めて用いたのは、正造自身の語るところによると、1874(明治7)年のことです。「借債は食事所に貼附して家内一同の記憶に存する事」「新たなる事に付金銭の支出を要する事あらば家族一同の協議を経べき事」など四箇条の家計の決め事を定めて、これを「家政の憲法」としたのでした。これを記録する自叙伝「田中正造昔話」は1895(明治28)年に読売新聞紙上に連載されたものですから、掲載時の思考や言葉遣いが反映されてもいます。本当に明治7年頃、「憲法」という語を家庭内の決め事で使ったのかどうか定かにはわかりません。
 田中正造の中に「憲法」が確かに息づくのは自由民権運動期です。田中正造は1880(明治13)年に、自らも加わる地方政社・中節社の国会開設建白書を起草します。「人民ノ国会ヲ望ム所モ炎々トシテ烈火ノ如シ」と書くこの建白書草稿の中で、彼は国会開設は天皇の叡旨だというレトリックを用いながら、有司専制の政治と内憂外患がおさまらないのは、「憲法を立て国会ヲ開カザルニ在ル」と言います。
 その上で、正造は、「国二政府アルハ固(もと)ヨリ臣等人民ノ福祉ヲ企図スルガ為メナレバ人民タル者ハ其政事二参与シテ応分ノ義務ヲ尽シ」云々と述べました。ここには、人民が国政の中心に据えられ、権力の目的が人民の利益(すなわち正造のいう公益)擁護にあり、さらに踏み込んで言えば権力の正当性は人民の利益擁護で測られ、それゆえに人民は政治に参画する資格があるという、至極まっとうな、近代政治理念についての理解があります。またそれは、「今より自己営利的新事業の為めに精神を労さざる事」とし「公共上の為」に活動することを決心した1878(明治11)年の彼の神盟とも重なります。
 建白書は同年11月元老院に提出されました。なお、日記によれば中節社が私擬憲法(憲法草案)を完成させたことがうかがえますが、現在のところ存在は未確認です。
 以上はひとり田中正造の主張ではなく、自由民権運動の中で広く言われていたことです。その思想と実践を終生貫き、深化させたことに田中正造の偉大さがあります。
 1889(明治22)年に大日本帝国憲法が発布され、翌年には国会が開設されて、田中正造は衆議院議員に当選しました。
 この時、足尾銅山を発生源とする足尾鉱毒問題はすでに顕在化していたのですが、正造は第一回帝国議会では鉱毒問題を取り上げていません。彼は議会を土台とした立憲政治を、本来あるべきかたちで確立することに傾注したのです。言い換えれば、議会中心の国の政治をどう構築するかの課題です。
 国会が始まってすぐ、議会に予算変更権があるのか、否かが大きな争点になりました。政府は天皇の大権を盾に否定し、民権派の流れをくむ議員(民党)が多数を占める衆議院と衝突するのです。そもそも正造は前記国会開設建白書草稿の中でも、「国二政府アレバ人民ヨリ費用(即租税)徴兵ヲ出サザルベカラズ。之ガ費用ヲ出サンニハ必ラズ……収税法ト支出法トヲ立シテ必ラズ議会ナカル可カラズ。」と書いたように、議会優位の考え方に立っていました。正造は、また、「国二政府ヲ設ケルハ素ト人民ノ福祉ヲ全ウスルガ為ナレバ其費用ハ人民ヨリ出サザレバ能ハズ」、だから議会が必要であると、国費の使い途および議会の監督機能にもふれています。
 ところで、政府が議会の予算変更権を否定する根拠とした憲法上の天皇の大権および天皇の神聖性について田中正造はどのように考えたのでしょうか。
 予算について議会の議決が優先することを正造は「憲法解義の独得」と題する長い日記(1891年9月)でも論じています。その中で、天皇について次のように言います。「立憲政体の君子[ 主]としては、我天皇陛下も亦(また)英国の女皇と同じく億兆の心を以て大御心とせさせ給ふ事勿論なり、豈(あに)英国の女皇のみ憲法上の徳義を守るべきの義務ありて、他国の君子[主]は其義務なしといふの理あるべけんや。」
 人民の意志(議会で表わされる)が天皇の意志であり、天皇にも憲法遵守義務があるというのです。
 次いで議会では、「民力休養」を唱える民党と軍艦建造予算を提出した政府が対立しました。政府は、役人俸給の1割と皇室費を削減するので建艦予算を認めるように、という詔勅を引き出して議会の賛同を得る手筈を整えます。詔勅が出されると抵抗できなくなる議員が多い中、田中正造は、問責を受けないよう言葉を選びながら次のように批判するのです。「日本ニハナイコトデアルケレドモ……モシ此暴君ガアッテ――日本ニハナイコトデアルガ暴君ガアッテコノ度ノ詔勅ノ如キモノヲ以テ……度々アッタラドウシタモノデアル……サウスルト憲法ノ効力ト云フモノハナクナッテ仕舞フ。」(1893年2月の議会演説)
 議会中心の、立憲政治への並々ならぬ思いが込められています。そして、後年には、帝国憲法第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」について、「三条、神聖は人民も神聖なるが故なり」(1909年4月)と、天皇神聖の根拠を人民に置くのです。強烈な主権者意識の発露と言って良いでしょう。(この主権者意識は最終的に、中国・孫文の辛亥革命について、「結構なり」「(中国の)共和(制)条理におへ(=い)てよし」という認識に達します。これは当時国内では稀有の表明です。)
 このような考え方に立って、田中正造は1896年の頃「天皇無責任、大臣責任」の語をくり返し日記に書き留めています。天皇の絶対権力性を容認して「責任ナシ」と考えたのでないことは前記の通りです。そして、大臣の責任とは、天皇に対するものでなく、憲法を守り国民の利益を図ることにある、というのが正造の主張でした。
 ところで、憲法を守るとはどのようなことでしょうか。1894(明治27)年4月の「立憲的非立憲的の別」という日記にこう書いています。少々長いですが引用します。
 「立憲的とは帝国憲法の趣旨に適ふを云い、非立憲的とはこれに違ふを云ふは勿論なれども、これは狭義の意味に外ならず。広義の意味を以て立憲的といふは憲法規定の有無に拘らず総て憲法の精神に適ふをいひ、非立憲的とはこれに違ふを云ふなり。……英国の如き不成典憲法の国に於て非立憲的行為といふは総て此広義の意味なり。成典憲法の国に於ては広義狭義並び行はる。」
 このような立憲的精神に基くことを正造は「憲法的動作」とも表現しています。そして、この憲法的動作を、政府のみならず国民にもまた求めていることが彼の特徴でもあります。それは権利を自覚し、議会と政府を監督し、破憲破道の政治を変える主体者として自らを存在させることです。彼は「国民監督権を失う久し。官吏無責任」「国民不注意より代議士腐敗」と言い、また「新日本建造すべし」とも言います。
これらは国民の権利であるとも主張しています。日清戦争後のことです。
 
 1898(明治31)年、伊藤博文内閣が倒れ、大隈重信と板垣退助を中心とする、わが国最初の政党内閣=憲政党内閣が成立します(6月)。正造は、藩閥政府の流れを断ち切り、「新日本建造」=真の立憲政体へ一歩進んだと思ったことでしょう。足尾鉱毒問題解決への期待もあったでしょう。しかし、この内閣は脆弱でした。彼は「予ハ今内閣ノ組織以来モノ功ナシ。」と自己評価しています。背景には足尾銅山操業停止と被害民救済をめぐる政府追及がありました。期待と失望の入り混った中で、それでも内閣倒壊の日には、日記に「政変」と書き、無念の気持ちをにじませています(11月)。
 そもそも田中正造は憲法で人民は守られていると考えていました。だから、不十分とはいえ人民の権利を規定した大日本帝国憲法を歓迎し、また、それを活用して鉱毒問題に挑んだのです。彼が初めて国会で足尾鉱毒問題を取り上げた質問書(1891年12月、第2回議会)はその冒頭「大日本帝国憲法第二十七条ニハ日本臣民ハ其所有権ヲ侵サルルコトナシトアリ」で始まります。田中正造が生業、生命、財産、自治等の諸権利を主張し、足尾銅山と政府に対してどのようにたたかったかについては、紙幅の関係で詳しく述べられませんが、この「今週の一言」の2006年8月21日に映画「赤貧洗うがごとし〜田中正造と野に叫ぶ人々〜」を制作した池田博穂監督が丁寧にお書きになられていますので是非お読みください。
 日露戦争(1904〜5年)前後には、足尾鉱毒事件は、鉱毒問題を洪水問題にすりかえた谷中村廃村問題に収斂されていきます。「一村ヲ亡スハ一国ヲ亡ス二同ジ」「外の広き満州より谷中の重きハ勿論にして、谷中人民一人の身ハ泥棒の捨万人より重シ」とたたかいますが、1906年に谷中村は廃村になります。
 国会開設以来立憲政治の確立を求め続け、鉱毒問題で「破憲破道」とたたかい続けた正造が最後にたどりついたのは次のような認識でした。
 「人権は亦(また)法律より重シ。人権二合するハ法律二あらずして天則二あり。国の憲法ハ天則より出づ。只惜む、日本憲法ハ日本的天則に出しなり、宇宙の天則より出でたる二あらざるなり。」(1912年4月)
 この翌年、正造は谷中村復活をめざす河川調査の途中に、渡良瀬川畔の鉱毒運動活動家の農家で倒れ、息を引きとります。遺品は日記帳、憲法と聖書の合本、小石(小石集めは正造の趣味でした)などごくわずかな物だけでした。
 亡くなる少し前に見舞いに来た人たちに、「お前方は田中正造に同情してくれるか知らねえが、田中正造の事業に同情して来てくれるものは一人も無い。」と苦しい息をしながら言ったと伝えられています。


田中正造の遺品(佐野市郷土博物館蔵)
 おりしも今年は正造没後100年にあたり、生地である栃木県佐野市を中心に様々な記念の企画が行われました。この稿も佐野市主催の記念祭(10月12日)に参加した後で書き上げています。没後100年、改めて「正造の事業」とは何か、何を継承するのかが問われているでしょう。
 以上思いつくままに書きなぐりましたが、書きながら改憲の動きを頭の片隅に置かざるを得ないのが現今の状況です。自民党改憲草案についても思うところがありますが、ここではあえて書きませんでした。また、それと関って、正造の重要な「事業」として、彼が構築した平和思想がありますが、これについては、再び機会が得られましたら、少しく述べてみたいと思います。

◆飯田進(いいだ すすむ)さんのプロフィール

1949年生れ。宇都宮大学教育学部卒(哲学専攻)。1972年〜2009年、田中正造生家近くの私立佐野日本大学高校で社会科教員。現在 栃木県私立学校教職員組合連合副委員長(専従)、田中正造を現代に活かす会事務局長。専門は日本近代思想史


<法学館憲法研究所事務局から>
当研究所は10月から「2013年憲法フォーラム ― 主権者として社会への向き合い方を問う!!(全3回)」を開催します。その第1回(10月21日(月))では「立憲主義という考え方」をテーマに、当研究所の伊藤真所長と浦部法穂顧問が参加者の質問や問題提起に回答・コメントし、参加者とともに憲法についての認識を深めます。多くの方々にご参加いただきたく、ご案内します。



 
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