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憲法解釈変更の限界と「憲法が想定する人間像」
――安保法案の問題点を考える視点――

2015年7月27日



岡田健一郎さん(高知大学人文学部教員)

はじめに

 以下の文章は、2015年6月15日に高知で開催された衆議院憲法審査会・地方公聴会で私が行った意見陳述の原稿に、加筆・修正を加えたものです。

1、憲法審査会が直面している問題

 今回、私がお話ししたいのは、昨年7月に政府が行った、集団的自衛権に関する憲法解釈の変更についてです。私には、この解釈変更が、日本の平和主義だけではなく、憲法改正問題や立憲主義、そして憲法審査会に対しても、深刻な影響を与えているように思われるからです。

 そこでまず取り上げたいのが、憲法解釈の変更と、憲法改正との違いです。
 実際に日本国憲法を見てみるとわかりますが、その条文は、その多くが抽象的な言葉遣いになっています。それは、憲法というものが、いわば「この国のかたち」を定めるものであることに由来します。すなわち――国や社会のかたちを、あらかじめ、全て細かく決めておくことは難しい。したがって、ある程度、かたちの大枠を抽象的に書いておく。そして、時代が変化しても、憲法の解釈を変えていくことによって、その度ごとに憲法改正の手続を踏まなくても、社会の変化に対して、ある程度、柔軟に対応していく――というわけです。したがって、一般論として、憲法解釈の変更はそれ自体、絶対に許されない、というわけではありません。

 しかしながら、ここには大事なルールがあります。それは、憲法解釈の変更には限界がある、ということです。条文から大きく逸脱した解釈は許されません。したがって「解釈の限界を越えて憲法の内容を変えたい場合には、憲法96条に従って憲法を改正せよ」というのが現行憲法のルールなのです。このことは、憲法99条で定められた憲法尊重擁護義務からも要請されると考えられます。
 先ほども述べた通り、憲法は人権や統治機構など、国家や社会の基本原理を定めたルールですが、その内容が政府の解釈変更によって頻繁に変わることになれば、人々は一体どのように行動すればよいのか、わからなくなってしまいます。これが、最近よくいわれる「法的安定性」の問題です。
 さらに憲法96条は、憲法改正のために、国会の議決に加え、国民投票も要求しています。したがって、日本において憲法を改正する決定権は、最終的には有権者にあると考えられます。本来なら憲法改正手続を踏むべき場面なのに、政府が憲法解釈の変更によってその場面を切り抜けようとする、いわゆる「解釈改憲」は、政府が有権者から憲法改正権を奪うことになってしまいます。

 しかも、今回の解釈変更は、数ある憲法の条文の中でも、平和主義という国家の基本原理というべき内容に関わるものでした。
 自衛権に関する従来の政府解釈は、自国が攻撃を受けた場合にのみ反撃が可能である、というものでした。
 しかし新しい政府解釈は、自国が攻撃されなくても実力行使が可能である、という集団的自衛権の行使を認めるものです。これら新旧の政府解釈の間には、はっきりとした断絶があります。私は、自衛隊や個別的自衛権を認める従来の政府解釈自体、憲法9条の解釈として許される一線を越えていると考えています。しかし今回の解釈変更は、それをさらに一層踏み越えたものです。最近、政府与党は、日本を取り巻く安全保障環境の変化や、砂川事件の最高裁判決などを持ち出して、解釈変更の正当性を主張していますが、いずれも説得力に欠ける、といわざるを得ません。
 なるほど、確かに安全保障環境は変化しています。だから、私はそうは思いませんが、日本の平和のためには、集団的自衛権を行使できた方がよいのではないか、と考える方が少なからずいらっしゃるとしても、無理はありません。
 しかし、そうだとすれば、先ほども述べたように、解釈変更ではなく、憲法改正によって対応するのが筋といえます(ただし、集団的自衛権の行使を可能にするような改正は「憲法改正の限界」を越えるのではないか、という問題は別途検討する必要があります)。

 さて、ここまでの話は最近よく議論されていると思います。
 ですが、私がさらに危惧するのは、次のような問題です。すなわち、このような解釈変更が許されるのならば、もはや、どんな条文を、どんな内容に解釈変更することだって可能ではないか、ということです。

 例えば、従来の政府解釈は、徴兵制が、苦役を禁じる憲法18条などに反するため許されない、としてきました。しかし、集団的自衛権に関する解釈変更が許されるのならば、「日本の安全保障環境の変化などを踏まえると、必要最小限度の徴兵制は憲法に反しない」などと政府解釈を変更し、徴兵制を導入することも可能ではないでしょうか。「まさか、そんなことはありえない」と思われるかもしれません。しかし、政府は昨年7月、国家の基本原理の解釈を、憲法の改正手続をとることなく変えたのです。そうだとすれば、徴兵制に関する解釈変更がどうして不可能だと断言できるでしょうか?

 最近では憲法改正の候補として、環境権や国家緊急権などが議論されています。しかしそれらの改正を行っても、結局、その時々の政府の望むように条文が解釈されてしまうのならば、そもそも憲法改正など無意味、あるいは有害ではないでしょうか。例えば、国家緊急権というのは、戦争や災害などの緊急時に、憲法の人権条項などを一時停止して、政府を中心とする国家権力の活動範囲を通常よりも拡大する仕組みです。そうしないと、いざというとき、政府が必要に駆られて憲法の枠組みを越えてしまいかねない、というのがその理由です。確かに、これはこれで一理ある考え方です。しかし、ここには大事な前提条件があります。それは、平時であっても、緊急事態であっても、政府ができるだけ憲法を守ろうと努力する、ということです。もしこの前提条件が成り立っていない場合はどうでしょうか。国家緊急権によって与えられた権限を、政府はさらに踏み越えて活動し、国家緊急権に関する規定がない場合よりも、結果として、市民の人権がより広く侵害されてしまう、というのは考えすぎでしょうか?

 要するに、憲法改正を考える際には、私たちの政府が憲法を守るということを、私たちがどこまで信頼できるのか、がポイントになるわけです。「今ある憲法は守らないけど、改正後の憲法は守ります」というのは、いささか都合のよい話といわざるを得ません。
 そして、昨年の解釈変更を踏まえると、残念ながら、現在の政府に、そのような「信頼」を置くことは、私にはいささか難しいように思われます。そうだとすれば、そもそも現在の日本は憲法改正を議論する環境にない、といわざるを得ません。これは、「憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議……等を審査する」ことを、その使命とする憲法審査会にとっても、深刻な問題ではないでしょうか。したがって、少なくとも、政府による昨年の解釈変更は撤回されるべきだ、と私は考えます。

2、憲法は、どのような「人間像」を想定しているのか?

 さて、ここまでの話をお聞きになって「憲法学者とは何と面倒臭いこと、あるいは融通の利かないことを言うのだろう」と思われるかもしれません。しかし、この「面倒臭さ」「融通の利かなさ」は、この日本国憲法が拠って立つとされる、いわゆる近代立憲主義の性格に由来します。すなわち、人々の基本的人権を守るために、国家権力を法で縛る、という考え方です。
 私は、この近代立憲主義は、一つの人間像を前提にしていると考えます。それが典型的に現れているのが、アメリカ憲法の制定時に活躍した政治家、ジェームズ・マディソンの「人間は天使ではない」という言葉です〔注1〕。人間は天使ではないからこそ政府を作るわけですが、残念ながら、その政府で働く人間たちもまた、天使ではありません。民主的に選ばれた、どんなに素晴らしい政治家も、天使ではない以上、時には間違えることもあるし、時にはわざと悪事をはたらくことがありえます。したがって、その暴走を防ぎ、人権を守るために、憲法で国家を拘束する必要があるのです。
 この、ある種の「人間に対する不信感」、言い換えれば、自分自身も含めた人間の弱さ、不完全さに対する、冷徹な認識は、トマス・ジェファーソンの「信頼は、どこでも専制の親である。自由な政府は信頼ではなく猜疑〔さいぎ〕にもとづいて建設される」という言葉〔注2〕、さらには、その80年後に、この土佐・高知の自由民権活動家、植木枝盛が述べた「世に良政府なし」という言葉にも見ることができると思われます〔注3〕
(ある意味で植木の「敵」ともいえる伊藤博文でさえ、憲法をつくる目的は国家権力を制限して人々の権利を保護することだ、という近代立憲主義を一応理解していたことは注目すべきです〔注4〕

 しかし恐らく、彼らはいたずらに悲観主義に陥っていたわけではありません。一方で、彼らは確かに、人々の力や民主主義に希望を見ていたように思われます。そしてその民主主義を可能にする仕組みこそが近代立憲主義だったわけです。
 だからこそ、権力を縛る法を権力が自ら緩めては困るのです。憲法学が憲法解釈の限界にこだわる理由はここにあります。

 最後になりますが、現在、国会で審議中の安保関連法案、ならびに昨年の政府による憲法解釈の変更を撤回した上で、憲法審査会が、今回の問題について、憲法、国際法、国際政治などをはじめとする幅広い専門家、そして、広範な市民が参加した上で、じっくりと時間をかけて検証されることを求めたいと思います。

 1946年、現行憲法を制定した国会において高知県選出の吉田茂首相は、憲法9条に関して以下のように述べました。

 「従来近年の戦争は多く、自衛権の名に於て戦われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争亦然りであります。・・・故に我国に於ては、如何なる名義を以てしても交戦権は先ず第一自ら進んで放棄する。放棄することによって全世界の平和の確立の基礎を成す。全世界の平和愛好国の先頭に立って、世界の平和確立に貢献する決意を先ず此の憲法に於て表明したいのであります」

 これが、日本政府の憲法9条解釈のスタートだったのです。戦後70年の今年、私たちはもう一度吉田の精神に立ち返り、この国の平和のあり方を考えるべきではないでしょうか。

* * * * *

〔注1〕ジェームズ・マディソン(第4代アメリカ合衆国大統領)……1788年
「万が一、人間が天使ででもあるというならば、政府などもとより必要としないであろう。またもし、天使が人間を統治するというならば、政府に対する外部からのものであれ、内部からのものであれ、抑制など必要とはしないであろう」(斎藤眞・中野勝郎訳『ザ・フェデラリスト』岩波文庫、第51篇〕

〔注2〕トマス・ジェファーソン(第3代アメリカ合衆国大統領)……1798年
「信頼は、どこでも専制の親である。自由な政府は信頼ではなく猜疑〔さいぎ〕にもとづいて建設される。……権力の問題においては、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わないように拘束する必要がある」(「ケンタッキー州議会決議」)

〔注3〕植木 枝盛……1877年
「人民にして政府を信ずれば、政府はこれに乗じ、これを信ずること厚ければ、益々これに付け込み、もしいかなる政府にても、良政府などいいてこれを信任し、これを疑うことなくこれを監督することなければ、必ず大いに付け込んでいかがのことをなすかも斗り難きなり。故に曰く、世に良政府なしと」(「世に良政府なる者なきの説」。家永三郎編『植木枝盛選集』岩波文庫)

〔注4〕伊藤 博文……1888年
「抑〔そもそも〕憲法ヲ創設スルノ精神ハ、第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」(枢密院における明治憲法案の審議。樋口陽一『先人たちの「憲法」観』岩波ブックレット)

◆岡田健一郎(おかだ けんいちろう)さんのプロフィール

1980年、大阪府生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士課程中退。2012年より高知大学人文学部に勤務。専門は憲法(特に日本とドイツについて)。




 
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