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今週の一言
帝国憲法、帝国議会、そして人心
2021年12月6日

久保田 哲さん(武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部教授)



明治14年の政変
 明治14(1881)年の夏、一大疑獄事件が起こった。それまで明治政府は、10年にわたって北海道開拓に尽力してきた。担当官庁である開拓使の廃止が翌年に迫った明治14年、政府内では、官有物の払下げが議論された。開拓使を主導してきた薩摩藩出身の黒田清隆により、その大半を薩摩出身者が設立した会社に、破格の安値で払い下げることが決定した。
 これを諸新聞がスクープした。1,300万円以上の税金が費やされてきた官有物が、約30万円―しかも30カ年の年賦、無利息という条件で、薩摩出身者が牛耳る会社に払い下げられることとなった、と報じたのである。報道には一部に誤りもあったものの、在野では政府批判の火が燃え上がった。それは、開拓長官黒田への批判から、薩長藩閥批判に発展し、議会開設が唯一の処方箋であるとされた。これを開拓使官有物払下げ事件という。
 これまで、幾多の困難を乗り越えた明治政府も、この在野の怒りには危機感を覚えた。明治14年10月、払下げの中止を決めるとともに、「国会開設の勅諭」を発し、9年後の議会開設を宣言した。いわゆる明治14年の政変である。なお、このとき、参議の大隈重信が政府から追放された。詳細は、拙著『明治十四年の政変』を参照されたい。
 明治政府は、必ずしも議会開設に否定的であったわけではない。そもそも、明治維新の理念の1つに、政治参加の拡大を目指す「公議」があり、政府内でも議会開設が模索されていた。ただし、時期尚早とする声が多く、その筆頭が黒田であった。明治14年の政変により、黒田の政治力が失われたこともあり、明治政府は議会開設に舵を切ったのである。とはいえ、在野の声がきっかけになったことは間違いない。
 政変の翌年、伊藤博文が欧州に渡り、議会開設や憲法制定を主導することとなったのである。

憲法発布・議会開設と国民
 明治14年の政変の折には、議会開設は9年後という「将来」の話であったが、明治10年代後半になると、次第に現実味を帯びてきたようである。臨終の際に、議会開設前に死ぬのが残念だ、といった言葉を残す者も少なくなかったという。
 他方で、人びとの反応が鈍かったことを窺わせるエピソードもある。大日本帝国憲法の発布が近づいても、国民感情が盛り上がらないことから、明治政府は各区長に国旗掲揚や山車を引くことなどを指示した。この試みは成功し、人びとは競うように街を飾り立て、屋台を出した。憲法発布を眼前に控えた明治22(1889)年2月7日の『時事新報』は、東京の様子をこう報じている。

昨今にわかに各町々の意気込みも沸き立つばかりの有様にて、軒提灯に国旗を掲げて事を簡略に済まさんなどと節倹を墨守する老人株さえ今はいつしか勇み立ち、若者に先だって花車出すべしとの発議に、若者連は二ツ返事、直ちに花車屋に車を飛ばせての注文引きも切らず、中にはもはや後れて断らるるむきも多かりしと。

 また、2月8日付の『読売新聞』によれば、国旗の値段が日に日に上昇し、品切れの店も出てきたという。かくして、帝国憲法の発布式が皇居で挙行された2月11日には、「憲法祭り」が大いに盛り上がったのである。
 続いて人びとは、帝国議会開設に際して「国会祭り」に沸いた。『東京朝日新聞』(明治23年11月30日付)は、帝国議会の開院式が開かれた明治23年11月29日の様子を次のように伝えている。

大路小路裏小店に至るまで、帝国議会開院式の祝意を表し、「祝国会」の文字に日章を描たる提灯及び国旗を其の軒に掲げ、人々相往来して当日の祝賀を通じ、或いは懇親会を開き又は祝宴を催し、花火、餅まき、幻灯、其他思い思いの趣向あり。公私小学校は大体休校して、生徒は丸の内へ拝観に出ずるなど、人として喜色あらざるはなく、家として和気あらざるはなし。天下泰平、国会万歳。

 明治維新からわずか20年余りで誕生した憲法と議会は、国家にも、国民にも、めでたいこととして心に刻まれたのである。

熱狂の裏面で
 しかし、その内実には、考えさせられる面があった。ドイツから日本に来ていた御雇い外国人のエルヴィン・フォン・ベルツは、憲法発布の盛り上がりを受けて、「こっけいなことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ」と書き残している(『ベルツの日記』)。
 かつて、議会開設を推進した福沢諭吉も、熱狂から距離を置いた。議会開設の年となった明治23年、福沢は議会開設に浮かれる世間に対して、「つまらぬ事」であり「馬鹿毛た事」であると苦言を呈した(『福沢諭吉書簡集』6)。第1回衆議院議員総選挙後の7月8日には、「日本国中選挙の騒ぎ、実に小児の戯か大人の発狂か」とまで述べている(『福沢諭吉書簡集』6)。
 先に紹介した『東京朝日新聞』のみならず、帝国議会の開院にあたっては、ほとんどの新聞が大きく報じ、礼賛した。ところが、福沢が創刊した『時事新報』に目を向けると、1面にも2面にも開院式を報じる記事は掲載されていない。ようやく3面に開院式の記事があるものの、他紙と異なり挿絵などもなく、きわめて淡白なものであった。
 福沢の一連の言説を、どのように理解したらいいのであろうか。慶應義塾の塾長を務めた小泉信三は、福沢の文章を「曲がった弓を矯めるため、常にこれを反対の方向に曲げることを厭わぬ」と表現する(小泉信三『福沢諭吉』)。弓をまっすぐにするためには、右側に曲がっていれば左側へ、左側に曲がっていれば右側へ引っ張る必要があるように、福沢は時代の情勢により、変幻自在な論を展開した。すなわち、帝国議会開設に対する福沢の冷淡な姿勢は、世間の過度な政治熱を冷まさせようとする狙いがあったのである。

歴史から何を学ぶか
 誤解のないように述べておくと、私自身は帝国憲法や帝国議会を好意的に評価している。これらは、非西洋諸国で初めて機能した憲法、議会であった。かつては、研究者のなかでも帝国憲法や帝国議会を非民主的であるとして低く評価する向きもあったが、近年では存在意義や果たした役割を再評価する研究が増えている。
 ベルツも福沢も、帝国憲法や帝国議会の誕生そのものを批判しているわけではない。その意味や内容を理解しようとせず、雰囲気や場の空気といった「風」に煽られる、あるいは「風」を吹かせるばかりの「人心」に警鐘を鳴らしているのである。
 もっとも、強い「風」のなかで立ち止まり、足元を見つめ直すという作業は、決して容易なものではない。おそらく、「憲法祭り」や「国会祭り」が盛り上がるなかで、憲法や議会を等身大に捉えようとすることは非常に困難であった。ベルツや福沢の方が、奇跡的であったといえよう。こうした傾向は、歴史のなかにとどまるものではない。「人心」というものは、得てしてこういうものなのではなかろうか。
 歴史を学ぶ者として、現在の出来事や課題を安易に歴史になぞらえることは好まない。しかし、他方で歴史は、人間の根源的な心の機微を教えてくれるのではなかろうか。

 …と、ここまで筆の向くままに偉そうなことを書き連ねてきた。論語読みの論語知らず、となるわけにもいくまい。保守、革新、改憲、護憲、改革…今日の政治を彩る言葉たちの意味するものを、私自身、いま一度吟味してみたい。

◆久保田 哲(くぼた さとし)さんのプロフィール

武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部教授。慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻後期博士課程単位取得退学、博士(法学)。
主な著書に『帝国議会――西洋の衝撃から誕生までの格闘』(中央公論新社、2018年)、『明治十四年の政変』(集英社インターナショナル、2021年)、『図説 明治政府』(戎光祥出版、2021年)など。

【関連HP:今週の一言・書籍・論文】

今週の一言(肩書きは寄稿当時)

『国会をみよう 国会パブリックビューイングの試み』
上西充子さん(法政大学キャリアデザイン学部教授)

書籍『議会制民主主義の活かし方―未来を選ぶために』
糠塚康江さん(東北大学名誉教授)


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