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連続講座「世界史の中の憲法」(オンライン配信中)に学ぶ

2008年3月3日

連続講座「世界史の中の憲法」が好評を博していることはすでにご案内してきました(連続講座「世界史の中の憲法」受講生の声)が、今回はNPO法人「人権・平和国際情報センター」(HuRP)の通信に連載された紹介文をご案内します。
この講座は引き続きオンライン講座として配信中ですので、多くの皆さんに受講していただきたいと思います(第1回講座は無料体験受講できます)。
浦部教授による連続講座第二弾「憲法の考え方」が3月15日から開講となりますので、あらためてご案内します。
(法学館憲法研究所事務局)


<第1回「憲法という考え方の歴史」>

 第1回目は「憲法」という考え方の歴史ということで、この講座の最も骨格となるものでした。
 冒頭で浦部先生は「憲法とはいったい何なのか」ということについて、国民に十分に理解されてこなかったという問題がある。最近は(憲法が)権力者を縛るものであるという認識がされてきたとは思うが、多くは「(憲法は)自分たちが守るもので、権力者が守るものであるということを認識してこなかった」。そういうところを理解しなければならないと仰っています。
 先生が、色々な講演会で「憲法は誰が守るものか」と尋ねたところ、「自分たち(国民)が守るもの・・・」という答えも多かったようです。
 ここまで聞くと、私自身かつて机上で学んだ時代を思い出しました。
 つまり憲法第99条についてのことを取り上げられており、それは憲法を尊重し擁護する義務を負うのは「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員」であり、ここには「国民」は含まれていない。
 要するに「公務員」まさに国家権力の担い手側の人達に憲法を守りなさいと言っているのだということが正確に理解されていないということです。
 私たちの多くが高校などで習う教科書では、世界史は地域毎にブツ切りにされた知識だけで、英米法系の歴史を「憲法」というテーマを通してトータルに考えた出版物も全然ない。法学部の学生も世界史を選択していない者が非常に多いとのことで、憲法という考え方が歴史に即して誕生したのだということを把握する必要があるとのことでした。
 この講義は、立憲主義のイギリスに始まり、植民地時代のアメリカを経て、近代立憲主義のフランスへと、憲法の生立ちが何故そうなってきたのかというところを歴史をふまえて知るという運びになっておりました。
 一瞬、今流行の「欧米か!?」というフレーズが自然と過ぎったものの、学生時代はほとんど試験対策のためだけに頭に叩き込んだブツ切り状の世界史を、「憲法」をテーマに時系列に捉えた今回の講義は、面白みがあったと感じます。
 今年5月14日、参議院本会議で自民・公明が採決を強行し同党の賛成多数により国民投票法が成立しました。
 「憲法を尊重し擁護しなければならない」人達が、こういう歴史を蔑ろにして、「今の憲法は古くなった・・・」などと無茶苦茶な改憲論を唱えています。しかも、イラク特措法の誕生劇等の裏側で、時の首相は「憲法は制約が多すぎて困る」などとトンチンカンなことをコメントしています。
 国会ではもっと慎重に討議がなされるべきだと期待したいところですが、単に頭数合わせにより事が進んでしまっている現状において、一人でも多くの人にこの講義を受講して欲しいという思いを残しました。     
 (I藤)


<第2回「人権という考え方の歴史」>

 日本語で「人権」と訳される“Human Rights”とは、すなわち「人間として正しいこと」。だから、「『今の憲法が人権のことばかり書いてあるのは、不公平だ』と主張する人は、『今の憲法は人間として正しいことばかりかいてあるから、よろしくない』と言っているのに等しいのですよ」と浦部教授。
 “正しいこと”ばかりでは不公平というなら、憲法には“間違ったこと”を入れなくてはならないのでしょうか、と。そう考えると、何だか可笑しいですね。浦部教授の講座には、いつもこうした“コロンブスの卵”的発想があります。
 ではこの「人権」という考え方はどのようにして生まれたのか。第2回講座「『人権』という考え方の歴史」では、人権概念の成立過程を検証してゆきます。近代市民革命を通じて確立された立憲主義。それを理論的に裏づけたのが、ロックに代表される自然権思想でした。
 市民革命の立役者たるブルジョアジーにとって何より重要だったのは「所有権の自由」という人権。それが、自らの労働を基盤とする各人固有の生存のための権利というロックのイデオロギーを媒介に正当化されることによってはじめて、人間が人間として生きていくために不可欠の権利「基本的人権」、ブルジョアジーの権利にとどまらず、広く人民一般に妥当する権利としての位置づけが可能になったのです。
 ここに、近代における「基本的人権」という概念が、特殊歴史的に誕生しながら、時代や階級を超える普遍性をかちえていったダイナミズムを感じます。
 私たちが今の社会の中で「人権」を主張すると、とかく“協調性がない”ヤツ、などとみなされがち。けれど「人権」の背後に、これだけの歴史があるということに確信をもてれば、怯むことなく“正しいこと”を主張する勇気が湧いてくるのではないでしょうか。(K.T)

 いかがでしたか。憲法についてもっと深く考えてみたくなった方は浦部先生の『憲法の本』がおすすめです。


<第3回「国民主権という考え方の歴史」>

 「国民主権とは、国民が主権をもっているということだ」ばく然とわかっているようで、実はよくわからない。そもそも「主権」とは何なのだろう。今回は浦部先生の「今回はちょっとむつかしい話です」という前置きにすこし緊張しましたが、がんばって聞きました。

 「主権」という考え方は、16世紀のフランスにおいて、フランスの法律家のボーダンがフランスの国王の絶対性をあらわすために用いた概念として登場した。
 当時のフランスは、隣国で対立する神聖ローマ帝国と宗教改革の抗争で弱体化しており、これを国王の権力を強化することで打開するため、打ち立てられたもので、後にこの概念が「絶対王政」の権力を支える理論となった。

 なんだか始めに持っていた印象とずいぶん違っていますね。

 17世紀になり、絶対王政のもとで商工業が発展したが、都市の商工業者(市民)にとって、王政による統制と特権ではものたりなくなってしまい、そういうものを取り払って、もっと自由に、もっと利益を求めるようになった。国王の「主権」に対して、権力の基礎を市民の合意に求めた。ここに「社会契約説」が生まれた。
 この「人民に主権がある」という考え方を確立したのが、ルソーであった。そして、これを現実のものとしたのがフランス革命。
 しかし、最高、独立の権力が一人の君主から多数の市民に移るのは難しい。絶対性(単一、不可分、不可移譲性)が「主権」の持つ意味であった以上、文字通りに市民に主権が市民に移ると、国家が成り立たなくなってしまう。
 こうして、「主権」という概念自体をかえないといけなくなった。
 ここで、「国民主権」という考え方がフランス1791年憲法であらわされた。「主権」は個々の人民(プープル)にではなく、抽象的な総体としての国民(ナシオン)に属するとされた。抽象的存在である「国民」はそれ自体では意思をもちえない。国民は具体的に主権を行使する主体とはなりえず、憲法の定める「国民代表」によってのみ主権の行使が可能となる。

 難しい流れですが、これで主権は「国王」から「国民代表」に移ったようですね。

 しかし、この「国民代表」は個々の国民すべてからの選任に関わる必要が無く、一部のお金持ち(ブルジョアジー)による支配を正当化したものでしかなかった。

 私たちから見ると、「上の方で何かやっているなあ」という感じだったのでしょうか。

 そして、産業革命の後に、これはちがう「民主主義の要求」が高まってきた。イギリス、アメリカ、フランスなどの普通選挙制度を勝ち取っていく中で、「国民主権」の概念はもっぱら権力の正当化の道具から一人ひとりの国民の具体的な権利を含むものといふうに変化した。

 長い年月をかけて、ようやく現在のかたちになっていったわけですね。

 しかし、ここで選出された代表者、代表者によって定められる法は、いずれも多数者の意志であって、少数者の意志は切り捨てられてしまう。はたして、これは多数者支配をより強力に果たす機能を強化しているだけなのではないか、考えなければいけない。一見、適合的に見える国民投票もはたしてそうであるのか。決定過程に少数者の意思をいかに反映させるかが重要。

 「国民の意思がなければ具体的には何も動かない」という先生の言葉には、「意志がなければ悪い方向に動いてしまう恐れがある」という気持ちが込められています。私は最初、この感想を書くにあたり「みんな、選挙に行こうよ」といった言葉で締めくくろうと思いましたが、それほど簡単なことではないようです。「あなた達が決めたわたし達でしょう?」と代表者に逆手をとられないためにも、少数者の意見を汲み取ってくれるような人かどうかを見極めることから始めようと思いました。


<第4回「三権分立という考え方の歴史」>

権力とは何か。権力が分立していることにどのような意味があるのか。憲法はそこにどう関わってくるのか。
 普段の生活の中で、そのことに立ち至る場面はほとんどない。特に憲法を身近に思うことは、今まで一度も実感としてない。浦部氏の講義を聞いて勉強しようと思った理由はそこにある。実感できない権力や憲法という抽象的にも思える存在を感じてみたかった。
 権力の専制を防ぐことを目的として権力を分立させる。三権分立というのは、言ってみればジャンケン状態にしたいわけだ。権力が権力を抑制する。それぞれ独立していることに意味がある。パーの天下になり、パーがグーとチョキを統べるようになった場合、既にジャンケンというゲームは成り立たない。
 フランス1791年憲法が三権分立制を採用した。220年前だ。日本に思いを馳せると徳川幕府の終期である。市民の権利などが明文化されるなどとは考えてもいなかっただろう。70数年後に明治維新が起こる。
 三権分立を唱えたモンテスキューの話になる。何故、三権分立という考え方が普及したのか。モンテスキューの書き方が抽象的・観念的であったため、普遍性を持ったのだそうだ。このことによって、各国で自国のこととして三権分立を考えることが出来た。
 浦部氏の落ち着いた話し方と三権分立という考え方の深さがリンクしているように感じられた。
 アメリカは三権が完全に分離しているというところが特長。大統領は執行権。議会は立法権。そして裁判所が司法権。それぞれはそれぞれに対して口を出せない。フランスでは司法権は恐ろしいものだと考えられるが、アメリカでは三権の中で一番信頼されている。違憲立法審査の制度がそれを裏付けている。
 一方、日本の議員内閣制では、厳格な意味での権力分立は成り立たない(行政権と立法権を同じ一つの政党が握っているため)。もう一つの司法権についても複雑な事情を抱えている。違憲立法審査の制度は弱者の権利を守ることにも使われるが、支配の正統性を補完する役割も持っている。相反する2面を持ち合わせているわけだ。むやみに「司法に訴えれば良い」と考えるのは問題があると浦部氏は警鐘を鳴らす。裁判所は議会の決定の正当性を補完するという面を持っているので、裁判所に訴えれば少数派でも意見は聞き入れられると盲目的に信じてはいけないのだと思った。
 権力は国民が持っている。それを有効に活用するために立法権、行政権、司法権に分けてお互いの独裁を許さない構造になっている。基幹となるのはやはり憲法だ。立憲民主主義について、更なる勉強が必要だと思った。
 (M井)


<第5回「戦争と平和の歴史」>

今回は、いわば、戦争から見た世界史のダイジェスト。
 何故人間は延々と戦争をしてきたか、そして今でもしているのかについては生物的・心理的な考察もあるが(それはそれでなかなか魅惑的なのだが)、ここではそいうことはひとまず捨象して、権力を持つ側とそれを行使される側の関係にしぼって解説している。
 近代以前の戦争は基本的に権力者(=王様)どうしの戦争で、民衆は、戦争に動員される側というよりは、略奪などによって一方的な犠牲になる側であった。それが大きく変っていくのがフランス革命で、ここで「自分たちの国家」という意識が芽生え、国家総力戦への布石ができる。「自分たちの国家」という意識はフランスから周囲の国にも波及し、それを権力者が利用することで、多くの戦争は総力戦になり、死傷者の数は激増する。これが、近代の戦争がそれ以前と大きく違った点だ。また、時代が下るにつれて、軍人と民間人の死傷者の比率は、民間人に大きく偏っていくのも特徴だと言える。

 皮肉なのは、「革命」と総力戦が不可分の関係にあったことで、その意味で「革命」は却って「迷惑なこと」だったと言えなくもない。

 核兵器を持ってしまったことで、国家間の総力戦は事実上不可能になっており、その一方で安易な軍事的介入は冷戦時代よりも増えているのが現在だ。しかし現在、本当に問題なのは、民族や国家間どうしの争いではなく、環境・人口・食料など、民族や国家を容れている地球それ自体の存続に関わることだ。少なくとも人間が生き続けることを望む限り、眼前の軍事的な危機に右往左往すべきではなく、「人間の安全保障」という視点に転換することが望まれる、として結んでいる。無根拠に美化したお題目ではなく、具体的に取り組む対象として、地球とか人類といった概念を捉えなおす必要があるのであろう。
 (T橋)


<第6回「国家と国民の歴史」>

〈第1回「憲法という考え方の歴史」、第2回「人権という考え方の歴史」、第3回「国民主権という考え方の歴史」、第4回「権力分立という考え方の歴史」、第5回「戦争と平和の歴史」と続いた講義の内容は、結局「国家をどうとらえるか、国家とは何なのか」という問題に集約される〉ということで、最終回の第6回は「国家と国民の歴史」がテーマとなっている。

 「日本の国を図で表してみてください。」
 この問いかけから講義が始まった。私は当り前のように日本列島をかいた。
 浦部先生は大半の受講者が日本地図をかいたことを確認し、「住んでいる市町村の地図をかけといわれたらどうでしょう・・ではスイス人はスイスの地図をかけといわれて‘国境でくりぬかれたその土地’だけをはたしてかくでしょうか?どちらもかける人は少ないでしょうね。日本人の国家観に関わるこの話は後ほどしますので」そういって「国家」とはなにか、の解説に入った。

 「国家」は英語stateの訳語。漢語のもとの意味は、一定範囲の土地とそこに住む人を含む政治的共同体を表す。一方Stateの語源はラテン語のstatusで「状態」の意。マキャベリが『君主論』で「このような状態(lo stato)」と当時の支配体制を表現したことから、政治的共同体ではなく支配機構を意味する。
 ここで、‘State’を「国家」だとすれば、国家とは支配機構・統治機構を指すことになる。
 また国家の法学的意味は、イェリネックの「国家の三要素」説に基づく(領土・人民・統治権の3つが国家の要素)。土地と住人は「国家」以前に存在するため、統治権こそが「国家」たらしめる要素だといえる。
 目に見えない力(統治権)が国家を国家たらしめる。漠然とした支配権はどう定着したのか、疑問に思った。
 では「国家」とは昔からあったのか。
それは近代になってから、人為的につくられたものだという。
 近代国家の特徴は、国境(明確な線引き)内に〈一体的な帰属意識をもった人々=「国民」(nation)〉がいて、そのような〈政治社会に対して排他的な支配権をもつ権力が存在すること〉だという。古代の「国家」らしきものとは、国境があいまいで支配も重層・多元的であったらしい。
 ここで地図の話が伏線になっていたことを知る。〈地理的範囲のイメージがはっきりしたこと〉は地図の大きな役割を意味する。そして〈支配機構stateが共同体nationと結びつくことで、本来政治的共同体から自立した存在である支配機構(state)があたかも政治的共同体そのものであるかのように立ちあらわれる(nation state とnationalism)〉。
「日本」といわれて日本地図をかくということ、オリンピックで日本人を応援するということ、これはまさにnationという共同体意識によるものだということだ。それが‘人為的に作られたもの’とはどういうことだろう。
 今日イメージとしてある国家は、ヨーロッパで18 世紀末〜19世紀終わりにできあがったものだといえる。三十年戦争後のウェストファリア条約で、主権国家体制が確立されるが、フランスという‘国’が形成されるのはフランス革命を通じてということになる。
 ヨーロッパ全体にこのような国家ができるまでには、さらに第一次世界大戦後の「民族自決」、第二次大戦後の植民地解放闘争を経る。
 では、人が「国家」の存在を、昔からの当然のこととして受け入れているのはなぜか。
 自分が〜人(日本人)であること、言語・文化・伝統・宗教・歴史など・・意識を共有する人々の「共同体」が“nation” 、それはイメージによるものにすぎない。私たちの抱く「日本人」意識は「昔から存在すべきだったもの」として統一・概念化された‘近代国家が植えつけたもの’だという(B.アンダーソン「想像の共同体」)。
 驚いた。「国家と国民の歴史」がものがたる衝撃的事実を、講義の後半でやっと呑み込んだような気がした。
 「ネイション」とは、近代以降に支配機構としてのStateが、支配を正当化するために創り出した人為的なものだったのだ。
 浦部先生は、「日本」を「わが国」と表現しない。国家の権力を制御する憲法・国家に支配される側の私たちにとっては、国家とは本来対立する存在であるはずだからだ。「‘国’とか‘国民’を絶対視するべきではなく、‘一人一人の人間にとって何が重要なのか’という観点を根本に持つべきだ」と説く。 『「国」の枠組み(「囗」)にとらわれているかぎり、人は、その文字が示すとおり、じつは「囚」(とらわれ人)でしかないのである。「国」の枠組み(「囗」)を取り払ってはじめて、人は人として解放されるのである。』(『憲法学教室〔全訂第2版〕』(日本評論社、2006年))と。
 ‘囗’にとらわれて‘限られた自由’を、無意識のうちに容認していた自分を気づかされたのと同時に、‘一人一人の人間にとって何が重要なのか’という考え方が、世界の人権問題解決や平和につながるのだという先生の言葉に、‘一人’としての「責任」について考えさせられた。(M)

 

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