教員が集う 中高生のための映像教室 『憲法を観る』
 
 
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メディア・リテラシーからみた学校の憲法
2011年5月2日
 
林 直哉さん(長野県松本深志高校 教諭)
 

1.体をすり抜けていった講義
  憲法は教職免許の獲得のために必履修である。それは、戦後教育の基盤が日本国憲法を拠り所にした営みであることを示している。ところが、教育現場に立つ私たちは、この理念、つまり「憲法と教育」についてどれほど理解していたか、恥ずかしいことに私自身の理解は深まっていなかった。
  改めて大学時代の憲法の講義テキスト、星野安三郎氏「憲法」と「憲法に生きる」(三省堂新書)をみなおしてみた。40年の歳月で色の変わった新書には、大学時代に私が引いた線と書き込みが残っていた。講義を行った星野教授が「憲法9条によって、母親が安心して子供を育てることができる社会が保障された」と気づいた彼自身の女性集会のエピソードや、国民の人権を守る憲章としての「憲法」等が講義されていた。今ならその意味が痛いほどよくわかる。ところが、熱のこもった講義と厳しい評価以外、私に当時の記憶はない。なぜ、大学時代の講義内容が私の体をすり抜けていったのか。

2.どんな理念も、教えられたら染みていかない
  三権分立、基本的人権の尊重、平和主義等々、小学校から大学まで学習した日本国憲法の特徴は「言葉」や「知識」であり、輪郭と意味を持って私の中には残らなかった。知っていても「わかる」領域まで深まらなかったのだ。憲法は、なぜ、だれのために、どのように作られるのか、その決定のシステムや全体像が、自分の日常生活から想像できる範囲の延長としてとらえられなかったからだ。言い換えれば、「憲法と私の日常生活」との回路が繋がっていなかった。当時の私の拙さと想像力の欠如が主たる原因だが、この「私と憲法の不幸な関係」は、多くのこどもたちの現在に当てはまる。だから、「憲法公布50年の年、松本美須々ヶ丘高校で憲法の学習会を行おう」と生徒会顧問から相談されたとき、真っ向から異議を唱えたのだ。
  「作らなくてはだめだ」
  憲法草案が作られたほんの1%でもいい、その過程を追体験することが、生徒に気づきをもたらすはずだ。そして、その気づきは、憲法を自分の日常生活に引き戻す仕掛けと力となり二者の間に新しい回路を生み出す。だから、「憲法を作らなくてはだめだ」と譲らなかった。北海道で行われる全国教研参加のため羽田に向かう中央線特急「あずさ」車中のことだ。

3.全体性の回復
  近代化とは、過程を省略・簡略化し、効率的な結果のみの享受を目指した社会である。乗り物の高速化は移動時間を、暖めれば本格的な味が楽しめるレトルト食品は素材選びから料理に至る過程を、効率化・利便性という絶対的命題のために過程を究極まで短縮した。こうして発展した現代は、日常生活のあらゆる分野から「過程」をはぎ取り、特殊化した各分野の専門家を創り出していった。そして、各分野の「専門家」と、彼らが生み出す結果のみを享受する「消費者」に切り分けてしまった。その結果、日常生活に埋め込まれていた「様々な構造の全体性」と「結果を創出する過程」に抱合されていた「智」がブラックボックス化されていったのである。
  中でも誰もが関係していながらこの傾向が顕著化したのが、マスメディア・医療・教育等の分野である。そして法律の分野も例外ではなかった。
  メディア・リテラシーから憲法を見ること、それは、このように日常生活から遊離した法体系の全体性を回復し、そこに法律に関わる気づきと学びを創出することだ。

4.実感
  私が関わった2校の「学校の憲法づくり」は、この点に着目した取り組みである。憲法の最も重要な機能は、行政(国)を制限し、国とそこに生きる国民の生活を方向づけていくこと。これは、憲法という法体系が発展し辿り着いた一つの到達点である。「憲法とは」「日本国憲法の特徴とは」という視点でこの到達点を扱う憲法学習の重要性は論を待たない。しかし、この学習は、憲法(法律)学習の一つの切り口に過ぎないのだ。はじめにも述べたが、60年あまりこの方法で憲法の理解者をどれほど育ててきたのか。そこに私の基本的な疑問がある。もっと根っこの部分で憲法あるいは法律と向き合う視点が必要と考えていた。それが「憲法づくり」という名前を使った、法体系の卵を学ぶ取り組みなのだ。
  自分たちのコミュニティの目標やルールを自分たちで決定すること、この企画進行の過程と決定のプロセスにこそ、憲法を含めた法という構造の「智」がある。人は、自分で決定する行為に対してのみ「主体」となりうる。そして、どんな些細なことでも決定事項にこだわりも持ち、大切にもする。国の憲法にかわり、コミュニティの憲法を考え起草に関わることで「憲法制定を疑似体験」する。法の制定の営みを全体性として実感で捉えようとしたのが「学校の憲法」「学級の憲法」制作の意味だった。

5.作ることを入り口にする
  96年と07年に取り組んだ2つの高校の憲法作りは、少し異なっている。
  96年に行った松本美須々ヶ丘高校の実践は、手探りだった。
  「みんなで学校の憲法を作ろう」単純に全校生徒に条文案のアンケートを行い、それを成文すれば何とかかたちになると顧問も係の生徒も考えていた。しかし集まった条文は、「上下履きの区別を付けよう」「掃除をさぼらないようにしよう」というような内容ばかりだった。
  松本美須々ヶ丘高校は制服も校則もない。そんな生徒が「学校の憲法」として最初にあげたのは、自分を縛る「校則」と変わらなかった。この点に重要な意味がある。中学でも高校でも、日本国憲法の特徴として「行政(国)を縛る」点をまず学ぶはずだ。にもかかわらずこの時、顧問を含めて誰ひとり「学校の憲法であれば生徒の自由を保障するために学校の運営側を縛るべきだ」という視点を持たなかった。
  読み解くことを中心とした憲法学習の限界がここに見えてくる。
  結局、憲法と一般の法律とは何が違うのか、いったい何を「学校の憲法」に盛り込むことが必要なのか、非常にプリミティブだが、真剣な話し合いをはじめざるをえなかった。しかし、ここに大きな気づきと学びの可能性が隠れていた。

6.受け身ではなく、主体となるためのしかけ
  この討議の末、2度目のアンケートを実施するにあたって、次の2つのルールが決まった。
  教職員、保護者を含めて学校を構成する全ての立場の人を「主語」にすること。
  否定形はつかわず「……しよう」という表現を使うこと。
  こうして、全校生徒から2000行の条文を集め、文化祭で公布されたのが次の条文である。

松本美須々ヶ丘高校憲法
           1996年8月30日制定
第一条 自由に甘えず、自由を育てよう。
第二条 人に左右されずに「自分」を精一杯表現しよう。
第三条 クラブも授業も真面目に参加し、自分で自分を鍛えよう。
第四条 クラス、学年にこだわらず、助け合い協力しよう。
第五条 購買のおばちゃんに感謝しよう。

中心になった生徒は、
  「最初の自由は『何をしてもいいという自由』で、後の自由は『何かができる自由』です。私たちがこだわってきた『自由』を二種類に解釈することで条文に松本美須々ヶ丘高校らしさをこめられたと思う。憲法というのは『守るものではなく、目指すもの』ではないかと強く感じるようなった。」と振り返った。
  第一条に盛り込まれた二つの「自由」に対するこだわりと解釈に、この憲法づくりの学びの到達点がある。彼女の気づきは、実際に作った経験を基盤にしなければ得られない実感であり、手探りではじめた最初の実践の成果を象徴している。
  この憲法は、条文作成の過程を含め文化祭の開祭式で公布され、その想いを受け継いだ新生徒会は、この憲法を銅板レリーフに制作して卒業生に贈った。この作品は10年後の現在でも生徒昇降口に飾られ、ミクシーの松本美須々ヶ丘高校コミュニティを象徴する写真にも使われている。

7.どう表現するか
  この実践から10年を経て、梓川高校の取り組みは「憲章づくり」とする予定だった。それは、松本美須々ヶ丘高校の実践について「憲法」という言葉の使用を疑問視する指摘を受けていたからだ。しかし、取り組むゼミ活動の検討会で「梓川高校憲法」としたいと要望があり、次のような主旨で始まることになった。
  「昨年の文化祭、『沖縄ミュージアムを作る』取り組み、修学旅行、16年ぶりの生徒会選挙等を通じて、私達は積極的で前向きな学校生活を積み上げてきました。それらは、とてもさわやかで、充実していて、何かを生み出せるような空気のように思えます。私達は、その感触を何かの形で残し、その形を踏み台にしてもっと素敵な学校を作っていってほしいと思っています。そこで、憲法施行60年の今年、世の中でな『憲法改正』と騒がれている今、『梓川高校憲法』という形でこの空気や雰囲気を表現することに挑戦したいと考えています。そして、いったい憲法とは『どんなきまり』なのか、本校の憲法をつくる取り組みを通じて学び、研究してみようと思っています。」

8.表現する言葉の限界と可能性
  結局、梓川高校の実践は、条文作成と制定の手順に焦点化されていった。
  ゼミは、顧問1人生徒9名で構成。6月に全校450人から3条ずつ計約1000条を集めた。これを30種類に分類し、さらに4つに統合しながら、4条のコンセプトとキーワードに絞り込み文案作りをすすめた。
  7月27日 学校の特色に言及した第1条を加えて全5条の原案が形になる。
  評議員会を通じて各クラスに下ろし討議開始、職員にも検討を依頼し意見を吸い上げる。検討会議は第1案が上がってから22回、2回のクラス討議を経て条文は大きく5回書き換えられる。そして、
11月26日 下のような表現に落ち着き文案決定。
12月13日 生徒総会で全校生徒に「公布」という手順を踏む。
翌年2月  10年後の見直し(改憲)を明示し、梓川高校生の大きな目標、そして心の背骨となってほしいという願いを込めて、卒業記念品となるタイルレリーフに焼き上げて昇降口に設置した。

第1条 
上高地線の運賃にも、河岸段丘の急な坂にも負けず、
        下原スイカのように日本のONLY ONEになろう。
第2条
輝くあいさつで、やさしく、厳しく、あたたかい環境をつくろう。
第3条
一人ひとりのできることを持ち寄って、
        仲間を思いやる気持ちを形にしよう。
第4条
素直に「ごめんなさい」心から「ありがとう」
        言って言われてみんな笑顔になろう。
第5条
一度しかない現在(いま)だから、
        失敗を恐れず自らの限界に挑戦し青春しよう。

9.日本国憲法への想像力とリアリティ
  このゼミに参加し中心となって制作した生徒は、この活動を次のようにまとめた。「この条文に使われている文字数は、全部で183文字です。とても少ない文字数に、私たちは今の梓川高校の前向きで意欲的な空気を閉じこめ、これから10年間の「方向性」を示そうとしました。その過程で、たった一字でも使い方によって意味や感じかたが変わることを知りました。そして、きっと日本国憲法もこのような表現との戦いの中で作られていったのだろうと思いました。」
  条文の表現、日本国憲法策定過程への想像力が生まれてきたことが、この実践の効果といえる。この生徒は大学に進み、学生につまらないと不評な「憲法」の講義を「楽しくてわくわくする講義だ」と話す。私の大学時代の「憲法との関係」を彼女はさらりと越えていた。そして、梓川高校の実践がネット上で「憲法と言えるか否か」議論沸騰したことを含めて、憲法を専門とする教授の研究室を訪ねて自分の実践を語り、「憲法」と命名する是非を問うた。そして、さらに紹介された他大学の憲法学者にも取材と問いかけを広げていった。こうして彼女と憲法の関係は更に深まりながらリアリティを増すことになる。そして、制作に関わった生徒には程度の差こそあれ、同じような憲法との関係が生まれていった。これこそが「実生活と憲法との回路」である。

 私は改めて、日本国憲法への想像力と学びの広がりのために、自分が参加する「コミュニティの憲法作り」が憲法学習の一つの方法として実践されることを切に願っている。

梓川高校の活動風景
     
          
                

*本稿は、長野県高等学校教育文化会議発行の教文ブックレットNo.7「“改憲”YESorNO 高校生の選択 〜高校生の憲法意識調査と憲法の教育〜」(2009年2月発刊)に掲載された原稿を長野県高等学校教育文化会議のご了解の下、著者加筆の上転載したものです。