教員が集う 中高生のための映像教室 『憲法を観る』
 
 
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主権者教育としての憲法教育に向けて(その1)
2010年9月20日
池田賢市さん(中央大学文学部〔教育学専攻〕教授)
 

 300人ほどの大学生に、これまでに経験した憲法教育についてアンケートをしたことがあります。それは大きく3つの質問からなっています。まず、憲法とは何かについていくつかの選択肢から正しいと思うものを選んでもらいました。立憲主義の内容を示した選択肢を選んだ学生は約6割、他は「国民の行動規範」「国民の自由を制限するもの」などを選びました。つぎに、そのような憲法の性質について学んだのはいつかとの問いに、4割が「中学校で」、3割が「大学で」と回答しました。しかし、学んだ時期と立憲主義の理解とはかならずしも一致していません。つまり、中学校で学んだとする者の2割弱は憲法の性質を誤解しており、高校で学んだとする者は全体として数は少ないが、そこで学んだと自覚する者のほぼ全員が立憲主義を正しく理解していました。
  そもそも立憲主義を6割の者しか理解していないことに驚くべきですが、その背景を理解する上で、3つめの質問への回答結果が役立ちました。「憲法についての学習でもっとも印象に残っていること」を自由に書いてもらいました。もっとも多かった内容は、憲法前文と第9条の暗記・暗唱でした。記憶に残る条文を挙げた者も、第9・11・13・14・25・26条にとどまっていました。
  国民の自由と権利を保障するために国家権力の濫用に歯止めをかけるもの、これが憲法です。そして、この憲法に基づいて政治を行うことを立憲主義というのであり、不十分な記述もあるとはいえ、教科書には必ず書いてあることです。しかし、むしろ国の成立のために国民の権利を制限する規定として憲法を理解している人が多いのが現実で、これは学校の教員も例外ではありません。憲法を変えたい人たちにとっては、憲法には権利とか自由しか書いてないと不満があるようですが、権利とか自由を書くのが憲法なのであって、それ以外を強調していけば憲法ではなくなってしまいます。このことがどれだけ伝わっているのか。
  つまり、教員自身が立憲主義を正しく理解しておらず、その教育方法も穴埋め問題のような学習にとどまり、扱う条文も少ない、という現状というわけです(大雑把ですが・・・)。
  学校現場の多忙化は教員から教育に対するゆとりを奪っています。しかし、憲法について正しく学習されなければ、民主的社会の存続はあり得ません。では、どうするか。
  まず第99条を読むことから始めてはどうでしょうか。「憲法を守る人は?」と聞くと、多くの場合「国民」との答えが返ってきます。間違いというわけではなく、この点はいくつか論争のあるところですが、99条を素直に読んでみたらどうでしょうか。最初に天皇だ、と書いてあることに驚く学生がほとんどです。政治家も含め要は権力側、権力行使する側がこの憲法を守るのだということです。
そのつぎに、第31条から40条まで。「人身の自由」についての重要な規定であり、刑罰を科すときの法的手続きや裁判について書かれており、人権を守る規定としてきわめて重要であるにもかかわらず、学校で扱われることは少ないと思います。国が犯しかねない権力濫用に歯止めをかけるのが憲法ですから、まさにこの部分の規定がしっかり書かれていないと、不当な逮捕がまかり通るのであり、実際戦前においては、そのことによる悲劇が多くありました。
このように、99条、31〜40条、これで立憲主義が十分に説明できるのではないでしょうか。その上で、前文から順に読んでいけば、きわめてすっきりと条文の趣旨が頭に入ってくると思います。
たとえば、第13条は「幸福追求権」の規定として有名です。すべて人は個人として尊重され、幸福を追求する権利があるのだと書いてあります。立憲主義の考え方からいえば、幸福を「追求すること」の権利を保障することに意味があるのであって、「何が幸福か」ということは絶対に問えないわけです。自由や多様性の尊重が民主的な社会の基本となっているのであり、近代立憲主義の政治体制においては、人はいかに生きるべきかといった価値の問題についてその善し悪しは判断できないという前提に立たねばなりません。国家はどれが良い生き方かを示すことはできないし、してはいけない。生き方あるいは生活に関わる根底的な価値は相互に比較することはできないという立場が徹底されなければ、民主主義はすぐに崩れてしまいます。
この点で、国を挙げて(?)の「早寝・早起き・朝ご飯」運動なるものは、その内容がたとえよいものであったとしても、権力を行使しうる側から主張されれば、「生活」というもっとも個人の価値が実現される部分があっという間に権力的管理・監視の対象になることを意味してしまいます。
【つづく】

 
【池田 賢市(いけだ けんいち)さんのプロフィール】

1962年、東京都足立区生まれ。筑波大学大学院博士課程教育学研究科中退。盛岡大学文学部(児童教育学科)講師、中央学院大学商学部(教職課程)助教授を経て、現在、中央大学文学部(教育学専攻)教授。博士(教育学)。
大学では、国際比較教育学、教育制度・行政学などを担当。
専門は、フランスにおける移民の子どもの教育政策。1993〜94年、フランスの国立教育研究所(INRP・パリ)に籍を置き、学校訪問などをしながら移民の子どもへの教育保障のあり方について調査・研究。最近は、インクルージョンに舵を切ったフランスの障がい児教育制度改革についても検討している。
著書として、『フランスの移民と学校教育』(明石書店)、『世界の公教育と宗教』(共著、東信堂)、『教育格差』(共編著、現代書館)、『法教育は何をめざすのか』(編著、アドバイテージサーバー)など。