教員が集う 中高生のための映像教室 『憲法を観る』
 
 
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憲法は「自己責任」の論理を超えた人権保障の規範
2011年3月28日
佐貫 浩さん(法政大学キャリアデザイン学部教授)
 

(1)憲法は競争と自己責任を超えた論理
  人類は長い長い歴史の中で、つい最近まで、この世に生まれてきてもどういう人生を保障されるのか、全く基準がありませんでした。どんな家庭や身分で、どの地域に生まれるかで、時には奴隷にされたり、日本の江戸時代であれば武士による「切捨てごめん」の対象になるかもしれませんでした。貧困の底辺に生まれてきた子どもたちは、病気や食糧難で大人になることすら難しい人生を歩まされることが多かったのです。そしてそれらの不幸や無念は、運命として受けいれるしかなかったのです。
  しかし市民革命の時代を経て、人間の平等や人権、社会保障の考えが広まり、日本はようやく1946年に、この世に生まれてきたものは誰でも、基本的人権を保障され、等しく教育を受け、生存権を保障され、人間としての尊厳の実現が、保障されることになったのです。憲法はそのことを国家の意志として宣言したものです。
  しかし今日、おそらく生徒の皆さんの多くは、どんなレベルの生活ができるかは競争に勝つか負けるかで決まり、学力が低くて将来ワーキングプアになってもそれは「自己責任」だというのが、当然だと考えているのではありませんか。この間、ワーキングプアと呼ばれるような貧困生活を強いられる人たちが急増している事態も、それはその人びとが競争に勝てなかったから仕方がないと考えるようになってきているのではないでしょうか。でも、もし、10人のうち2人はワーキングプアになるような格差社会を創り出したら、たとえどんなにみんなが頑張っても、2人はワーキングプアにならざるを得ません。そしてそういう人たちがホームレスになった時、他の8人の人びとは、そういう不幸に襲われている人達を、「自己責任」だと冷たく突き放すことになるのでしょうか。
  そのことに関わって、実は激しい学力競争、進学競争が、競争の正義、能力競争の正義という考え方を肥大化させ、競争に負けたり、学力が他の人より低いために不利な状態におかれ、生存権が奪われても、それは個人の自己責任だという考え方が広まってしまっているように思います。しかし今回の大震災を見ても、突然の大災害で不幸に追いやられ、個人の力だけでは絶対に立ち上がれない人たちが大量に生まれているのです。そんなときは、互いに助け合うほかありません。正規雇用が縮小されていて、安定した職業に就けないというのもそういう「社会的災害」というべきでしょう。そういう「社会的災害」を個人の能力や努力のせいにして、困難にある人を放置することはできないはずなのです。
  憲法というのは、そういう事態に対して、この世に生を受けた人は、誰でも生まれてきて良かったと思える生活を保障されなければならないというヒューマンな人類的感情──そういう感情や価値観自体、長い人類の歴史の中で、人間的な力として獲得してきたものですが──に基づいて、社会の連帯の力で、全ての人に、人間としての尊厳を実現できる生活、生存の水準を保障しようという連帯的契約として生み出されたものなのです。そういう権利を社会権と呼んでいますが、生存権保障という形で社会権を最初に憲法に規定したのは、1919年に制定されたドイツのワイマール憲法でした。日本国憲法はこのワイマール憲法に学んで、第25条に「すべて國民は、健康で文化的な最低限度の生活を營む權利を有する」という生存権規定を組み込んだのです。
  フランス革命やアメリカ独立戦争を主導した市民革命思想の原点は、国家権力に対する市民の自由の獲得にありました。憲法はそういう自由権の規定から出発しました。しかし主権者たる国民・市民は、自らの参政権に基づいて作り出した国家権力を、同時に自分たちの連帯の意志を実現する機関として捉えて社会権を規定することで、生存権を保障する責務を国家(政府)に負わせたのです。
  だからこそ、貧困や失業に襲われた人びとを支え、希望を回復することは、国家(政府)が国民から負託された責任であり、生存権剥奪の事態を「自己責任」として放置することは絶対に許されないというのが日本国憲法の論理なのです。そういう責務を果たさない政府は、国民の意志に背くものとして、国民の手によって取り替えられなければならないというのが、まさに日本国憲法の精神なのです。取り替えるということは、市民革命によって獲得された「革命権」そのものであり、日本国憲法は、その革命権を、民主主義的手続きによって政権を取り替える権利として受け継いでいるのです。

(2)表現の自由と平和に生きる権利の構造
  憲法の理念は、自動的には継承されないという問題を忘れてはなりません。憲法第97条は、「(憲法が保障する)基本的人權は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と述べており、そういう「努力」は英文ではstruggle(苦闘)となっています。すなわち現憲法は、そういう苦闘(struggle)を、私たちに責務として課しているのです。
  しかしそういってもなかなかこの苦闘(struggle)のイメージがわかないかもしれません。しかしよくよく憲法を呼んでみると、国民に保障されているたたかいの方法は「表現」なのです。あえていえば、「表現」だけといっても良いかもしれません。なんと心細い権利保障だと思うかもしれません。でもこれが実はもっとも強力で、かつ平和的で、人間的なたたかいの力、方法なのです。そして重要なことは、憲法は、国民に対してこの「表現」を行使する権利、「表現の自由」を保障し、表現によってたたかう国民に国家権力は指ひとつでも触れることを許さないとしているのです(憲法第21条)。憲法は、国家権力が暴力で国民を弾圧することを許さないという意味で、国家を縛る法規範として生み出され、存在しているのです。あわせて憲法は、当然にも、国民に、暴力による他者への攻撃を許さず、平和的な表現の自由の行使によってのみ自己の意志や要求を表明し、不正義とたたかう権利を保障しているのです。表現の自由とは、表現の自由を行使してたたかいを行っても絶対にその人が暴力で抑圧されないこと、命の危険にさらされないことを保障することを含んでいます。だからこそ日本国憲法は平和憲法と呼ぶことができるのです。
  しかし残念なことに、子どもの世界でも、いじめや暴力が広がっているという事実があります。暴力(腕力)を使わなければ安全に生きられないというまさに憲法が通じない無法社会が教室にも出現しているのです。そういう中で、自分が本当に思っていることもいえず、いやだと思うことも拒否できないでずるずるとまわりに同調するほかなくなってしまうようなことが起きているのです。それは、人類が獲得し、日本国憲法に明記された表現の自由によって理不尽とたたかう権利が奪われていることに他なりません。
  この事態を克服し、憲法の原理を回復・維持していくためには、一人一人が勇気を出して「表現の自由」を行使し、人間的正義を回復するたたかい(苦闘=struggle)を、今自分が生きている生活空間、学校空間で始めなければなりません。
  ではそういう勇気はいかにして守られるのでしょうか。実はそれは、みんなが勇気を出すことによってのみ、可能となるのだとしかいいようがないのです。先にも指摘したように、「(憲法が保障する)基本的人權は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」としてしか、維持されないのです。人権剥奪への怒り、生きられない苦悩への共感を人びとの中に広げること、そして正義はどうあるべきかを一人ひとりが勇気を持って表現すること、そういう無数の意思表明としての表現行為が、互いの勇気を守るのです。
  憲法の理念は歴史的には幾百万の人びとの命の犠牲の上に獲得されてきたものです。私たちは、その犠牲を覚悟で苦闘した過去の人びとと同じレベルの決意を、表現の自由を行使する勇気ある決意として発揮し、今、自分の目の前にある理不尽とたたかうことが求められているのです。そのとき、そういう勇気の発揮を押しつぶそうとする無法な暴力を、日本国憲法の「平和的生存権」が許さないし、また、その勇気ある表現の自由の行使に励まされて喚起される多くの勇気がそれを許さないと確信できることが、まさに私たちが生きている現代のすばらしいところなのです。
  日本社会では、貧困や生存権が剥奪される事態が生まれており、それらは「自己責任」として放置されている現状があります。憲法に結晶しているはずの連帯の精神が、生存権の思想が、忘れ去られ、破られている実態があるのです。それに対して、みんなが声を上げ、憲法の理念の実現、理念の具体化を実現していかなければなりません。そういう憲法理念を再創造する空間を自分の生活の場にどう作り続けられるかが、問われているのです。そのような意味で、憲法に書き込まれた理念は、その理念を実現しようとする私たちのたたかい(努力=struggle)によって絶えず呼び起こされ、活性化され、未来へとつながる現在を導く理念として、輝くことができるのではないでしょうか。
  憲法を学んで身につけるとは、ただその条文を記憶することではなく、今述べたような苦闘と勇気を自分で生きることだということぜひ考えてほしいと思います。

 
【佐貫浩(さぬき ひろし)さんのプロフィール】
◇1946年10月2日  兵庫県篠山市生まれ
◇所属  法政大学キャリアデザイン学部教授
◇教育科学研究会委員長
◇主要著書
@『知的探究の自由』教育史料出版会、2000年
A『イギリスの教育改革と日本』高文研、2002年
B『学校と人間形成』法政大学出版局、2005年
C『学力と新自由主義』大月書店、2009年
D『平和的生存権のための教育─暴力と戦争の空間から平和の空間へ─』教育史料出版会、2010年
E『品川の学校で何が起こっているのか─学校選択制、教育改革フロンティアの実像』花伝社、2010年