教員が集う 中高生のための映像教室 『憲法を観る』
 
 
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倚りかからない憲法教育ー震災対応から学ぶ
2011年9月26日
子安 潤さん(愛知教育大学教授)
 

1 「倚りかからず」と震災
  茨木のり子の『倚りかからず』という詩集(筑摩書房)がある。本と同じタイトルの詩の一部を引用すると、「もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない/もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない」「自分の耳目/自分の二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある」ときっぱりだ。
  この詩は、3月の震災とその後の政府やジャーナリズム、そしてその道の専門科学者の言動から私が学び取った教訓そのものである。今回の震災は「想定外」と言われたが、実は過去にもこれに匹敵する地震や津波があった。原発は「安全」ということだったが、事態は悪化の一途をたどり、放射線被曝した人を増やした。途中の報道も含めて全くのウソだった。政府・電力会社・ジャーナリズムの言うことはウソだった。
  具体例を挙げよう。原発から放射能がまき散らされ、今も排出され続け、校庭や飲料水、農産物そして魚介類の放射能汚染が止まらない。低線量被曝も続いている。この危険性について政府とジャーナリズムそして科学者は「ただちに健康に影響はありません」と言い続けている。政府は、飲料水や食物の出荷基準を国際的な基準より大幅にゆるめたが、校庭の放射線量の基準をめぐる騒動からもわかるように、放射線技師のような職業に当てはめる基準を子どもに適用して済ませようとした。その基準を権力と企業と御用学者は「安全だ」と言い続けようとした。強い批判と反論にあって一部を撤回した。
  だから、政府発表、報道発表をそのまま鵜呑みにしては、生命の安全が守れないことがはっきりした。これが今回の震災とその後の対応の中でわかってきた教訓である。倚りかからない、とりわけ権力や権力に近い位置にいる者に倚りかからないことが必要なのである。だからといって、自己責任ですべてを判断していくことなど不可能だ。確かな情報、根拠のある知識が生きていくために必要なことも明らかだ。

2 科学の絶対視から私たちの科学へ
  近代は、驚異的な科学の発展の時代だった。そのために科学・学問への信頼を一方に生みだした。しかし、その後明らかになるように、もう一方では、人類に災厄をもたらした。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(新潮社)が告発したように化学物質による汚染、原子爆弾という人類絶滅兵器の開発がそれだ。科学や学問も、自然科学を含めて政治的存在であることが明らかになってきた。だからこれをそのまま礼賛していて良いわけがないことも明らかとなっている。
  こうした二つの側面を持つ科学に対して、単純にこれを否定する反科学論がかつて存在した。しかし、科学を拒否するだけの把握で問題が解決するはずもない。これから述べることは、科学や学問の絶対視をやめる構想だが、かつての破綻した把握ではない。私たちの科学に作り直す必要がある。
  放射線の低線量被曝の影響に関する研究に顕著なように、被曝線量が低ければ低いほどよいとする見地と、一定数値までは影響がないとする見地が対立している。しかし、放射能に晒される市民の側からすれば、研究の決着を待っているわけにはいかない。どう行動すべきなのか日々判断を迫られている。中には、エセ科学的流言に晒されることもある。いくつかの学会やその連合が震災に関わって声明や提言を発表しているが、その中にも対立する内容が含まれている現実がある。科学的結論は一つではない。
  こうした時に重要なことは、第一に、政府発表や報道発表あるいは学者・学会の発表を鵜呑みにしないこと。第二に、どちらが私たちの命や安全を確保することになるのかの観点から、基本的対抗関係を学びそこにアクセスできるようにしておくこと。第三に、多様な市民的つながりのある暮らしを創りだしておくことだ。単に科学的な見地はどちらかと考えるのではなく、「私たちの科学」へと「私たち」が作り直していくことだ。この観点から憲法教育も見直されなければならない。

3 自律的憲法教育へ
  憲法の教育というと、憲法と一般法との違い、日本国憲法の三原則、9条をめぐる現実と解釈といった条文の抱える諸問題を取り上げることが多い。内容として欠かせないが、ここで、是非ともやめなければならない実践動向が二つある。一つは、条文の暗記に終始するものだ。受験対応であれ、結局暗記させるだけの学習を廃棄すること。もう一つは、護憲派であれ改憲派であれ、それぞれの結論と同じ意見表明を子どもに迫る授業である。憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」は子どもにも適用される。判断するのは、子どもである。しかし、これが意外に保障されていない。
  そうではなくて、条文の解釈ならびに現実にある問題とそれらに関する対立意見を示し、子ども自身に説得的な論理をつくり出すよう促し、意見を交流する授業に組み替える必要がある。そうでない限り、憲法教育は自律できない。さもないと政権党に合わせて授業の方向を変える教育が生まれかねない。ウソを教えていた戦争中、ウソを教えていた原子力発電の授業を繰り返してはならない。権力や教師が真理と信じた中身を教えるのではなく、最良の学問的到達点だからと教えるのではなく、事実を示しつつ対立点を浮かび上がらせ、その判断を子どもに委ねる授業が必要なのである。粗野な政治によって真理が歪められ自由が犯される危険が現実となっている今日、権力の手先となってしまわないためにも、倚りかからない見地が必要なのである。倚りかかるとすれば、自分の「わからなさ」(センス・オブ・ワンダー)と自分たちで確かめ共有した判断だけでいい。

 
【子安 潤(こやす じゅん)さんのプロフィール】
愛知教育大学教授
近著
『教室で教えるということ』八千代出版、2010年5月
「同化としてのアイデンティティから対象との関係選択へ」日本生 活指導学会編『生活指導研究』第26号、エイデル研究所2009年10 月
『反・教育入門 改訂版』白澤社、2009年など

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