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「絵空事」でない人権教育とは
2012年1月2日
世取山洋介さん(新潟大学教育学部准教授)
 

 1997年のことだったと思う。ある国連NGO主催で、ジュネーブ湖畔に建つある歴史的な建物の中で行われた人権教育についての国際シンポジウムで、日本のことを報告した。
 私の報告の中心的なメッセージは、子どもに対する人権教育は、学校における子どもの人権保障の上に展開されなければ、「絵空事」(empty words)になってしまう、ということであった。約15年前の日本においては、1980年代初頭から問題となったいわゆる「学校の管理主義」、すなわち、学校が子どもを、校則、体罰、内申書で管理し、その自由を拘束し、あるいは、その生命を脅かすという事態が全国に蔓延していた。また、いじめもすでに大きな問題となっていた。1年に1人が体罰で死に至り、また、1ヶ月に1件の割合でいじめ自殺が報じられていた。不登校も大問題となっていた。
 その後、確かに、「管理主義」は沈静化した。しかし、いじめは、形を変えながら、今でも深刻である。1990年代終盤に、いわゆる落ちこぼれグループ内での上下関係のもとでおきるものから、学級内で少しでも目立てばその子を“引きずり降ろす”ためのそれへと変わった。不登校の深刻さも変わらない。学校は子どもの人権侵害に直接手を染めることはなくなったのだが、子どもの間の暴力や子どもの学校からの逃走は相変わらず存在している。そして、これらの原因となっている事柄も解決はしていない。
 学校における人権教育を実効的なものとするためには、子どもの人権が日常的に保障されている学校をつくらなくてはいけない。では、どうすればできるのか。私が報告で指摘したのは、次の2つのことであった。まずは、いじめや登校拒否のいずれも、競争主義的な学校のストレスに起因し、いじめがストレスの他の子どもへの転化を意味するのに対して、登校拒否はストレスからの忌避を意味している以上、教育の競争主義的性格を減じること。次に、競争主義的教育のもとで子どもが喪失している「ありのままに受け入れられる人間関係」を回復することである。2番目の指摘は唐突なものと写るかもしれない。しかし、「嫌なものは嫌!」「こんなことがしたい!」と自由に言える大人との人間関係があってこそ、子どもは主体的でありうるし、変化を引き起こす主体となる。そして、本当の意味での変化、すなわち、競争主義的教育制度の改革へのプロセスが始まるはずである。
 私は、「人権」という言葉を、その人が本来持っている力を発揮できるようにするために、その発揮を妨げている力を、国家を用いて排除し、あるいは、それを発揮できる条件を国家に提供させる“チカラ”と理解している。この理解に基づけば、子どもの権利とは、子どもが持っている力を認め、かつ、その力の発揮を可能とするような条件を国家に提供させる“チカラ”ということになる。ありのままに受け入れられる人間関係は、そのような条件に他ならない。このような条件を実現し、子どもが自らの人生の主人公であると実感させることが、最善の人権教育であるし、人権教育のベースとなるべきなのである。
 もっとも、教師が子どもをありのままに受け入れ、子どもが自由に発するコトバに耳を傾け、それに変化への芽を読み取り、子どもと一緒に行動をするためには、教師自身が自由でなくてはならない。教師による人権教育と憲法教育には、本来持っている自分の力を発揮できているのかを検証する作業が伴ってなくてはならないのである。
 子どもの権利の学校での日常的な保障、そして、教師による自らの自由実現のための努力の上に立った、絵空事ではない人権教育が、日本において実現されることを切望していること、約15年前と変わりはない。

 
【世取山洋介(よとりやま ようすけ)さんのプロフィール】

1995年新潟大学助教授、1999-2001ハーバード・ロー・スクール、ヒューマン・ライツ・プログラム客員フェロー。Defence for Children International 日本支部事務局長。著書には、『君の味方だ!子どもの権利条約』ほるぷ出版、2003年、『新自由主義教育改革』大月書店、2008年などがある。