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――主権者教育のささやかな実践から
 
民主政治と公共的な討議――主権者教育のささやかな実践から
2012年2月20日
岩本 一郎さん(北星学園大学経済学部教授)
 
1 国民の政治――主権者意識
 国の権力は「国民の権力」である――この自覚が国民に広く共有されていなければ、民主政治は成り立ちません。権力の行使は決して他人任せにはできない――このような国民の自覚から、国の権力は「国民自身の手によって」行使され、その行使は「国民の利益と福祉のために」なされねばならない、という主権者としての責任が生まれるのです。もちろん、「自国のことのみに専念して他国を無視する」(憲法前文B)ような偏狭なナショナリズムは、避けなければなりません。しかし、「国の権力=国民の権力」という国民の自覚は、民主政治の基礎であり、主権者意識の中核に位置づけられるべきものです。

2 国民による政治――民主政治の夢?
 民主政治において国の権力は、国民全体の権力であり、一部の国民が特権的に行使できる権力ではありません。したがって、権力の行使にかかわる政治的決定には、できるかぎり多くの国民が参加することが望ましいと考えられます。そのため、民主政治では、国民が直接的または間接的に政治的決定に参画する仕組み――レファレンダムや選挙などの仕組み――が必要となります。また、国の権力の行使に直接たずさわる公務員が、一部の国民の代理人ではなく、「国民全体の奉仕者」(憲法15条A)とされるのも同じ理由からです。
 現在の情報通信技術を活用すれば、多くの国民を政治的決定に直接参加させるシステムを作ることは、そう難しくないでしょう。たとえば、「原発を再稼働させるべきか否か」といった国民全体にかかわる重要な政治的案件について、スマートフォンのタッチパネルを通じて「国民投票」を実施することは、決して夢物語ではありません。また、原発の安全性や代替エネルギーの可能性などに関する情報をいつでも端末にタウンロードできる、そんな仕組みも技術的には可能でしょう。

3 国民のための政治――公共的な討議の保障
 しかし、国民の参加は、民主政治の必要条件であっても、十分条件ではありません。政治的決定は、ネットショッピングで欲しい商品をクリックして買うのとは違います。主権者の決定は、消費者の決定とは2つの点で大きく異なるからです。第1に、政治的決定の場面では、今この場所で個人が持っている利益や欲求は、とりあえずの出発点にすぎません。現在の利益や欲求は、他の国民との議論や論争のなかで変わりうるものと考えられています。買い物では、「欲しい時が買い時」といわれます。「今欲しい!」という欲求の強さが「買いかどうか」の判断を左右します。
 第2に、国により強制される政治的決定は、多くの国民の生活に広汎かつ重大な影響を与えます。たとえば、「年金の支給年齢を70歳に引き上げる」といった政治的決定がなされるならば、国民は、自分の人生設計全体の見直しを迫られることになるし、引き上げの時期によって異なる取扱いを受ける人が出てきます。自由の制約や別異な取扱いに納得できない国民は、政治的決定に反対するでしょう。そのとき、政治的決定を支持する国民は、反対する国民に対して、この決定が国民全体の利益に資する「筋の通った理由」を示さなければなりません。買い物では、「欲しかったから」ということが1つの立派な理由となります。しかし、政治的決定では、個人の欲求それ自体は、他の国民を納得させることのできる理由とはなりません。
 民主政治において「国民のための政治」を実現するためには、個人の利益や欲求は、国民同士の議論を通じて、国民全体の利益の観点から絶えず見直されなければならないものです。また、強制力をともなう政治的決定を支持する国民は、その決定が国民全体の利益に適うものであることを反対する国民に説明する責任を負います。このように、国民同士が議論し説明するための「公共的な討議」は、国民の参加とともに、民主政治にとって必要不可欠な要素なのです。

4 公共的な討議の作法――公共的理由
 主権者として政治的決定に参加する国民は、民主政治において守らなければならない公共的な討議の「作法」を身につけなければなりません。その第1の作法は、公共的な討議の場にふさわしい考慮要素を踏まえて考えるならば、立場を異にする人でも納得してくれると期待できる理由を示すということです。20世紀を代表する政治哲学者の1人であるジョン・ロールズは、このような作法を「節度の義務」と呼びました。
 自由で民主的な社会の基本的な前提は、そこで生きる人々の価値観は多様であるということです。価値ある人生についての考え方も、事の善悪を判断する規準となる道徳も、信仰する宗教も互いに異なる人々が集まって1つの国を作っています。したがって、公共的な討議において、お互いに価値観をぶつけ合っても、反対の立場をとる相手を説得できる見込みはありません。生き方も道徳も宗教も違う相手を説得するためには、いったん自分の価値観を括弧に入れて、個人の生き方や道徳や宗教から距離を置く「中立的な理由」に訴える必要があります。国民が、お互いに節度の義務を守りつつ議論するためには、できるかぎり多くの国民が共有する理由――ロールズの言葉を使えば「公共的理由」――によって政治的決定を正当化するよう努めなければなりません。

5 主権者教育――公共的な討議の予行練習
 民主政治において求められる主権者教育とは、公共的な討議の作法を身につけさせる教育にほかなりません。作法は、頭で理解するものではなく、体で覚えるべきものです。そこで私は、大学の憲法の授業や演習で公共的な討議の「予行練習」を行うようにしています。使う練習課題は代理出産の問題です。私が考える学習のポイントをさしあたり5つです。
 第1は、神様や自然に訴える議論は「禁じ手」であることを知ることです。代理出産を禁止する理由として、「生命の誕生は神の手に委ねられるべきである」と主張する学生はほとんどいません。ただ、「子どもができるかどうかは自然の摂理に任せるべきである」と述べる学生は結構います。しかし、何が自然で何か不自然か、それ自体が自明ではないことを教えることが大切です。
 第2は、人権は公共的な討議の流れを左右する「切り札」であることを学ぶことです。代理出産の禁止を批判する学生は、その禁止にともなう自由の制約を指摘します。夫婦の家族を作る自由、代理母の子どもを産むか産まないかを決める自由、代理出産に関する契約を結ぶ自由などです。憲法をよく勉強している学生ならば、これらの自由が憲法13条の幸福追求権から導かれる自己決定権と深く結びついていることを指摘できるでしょう。
 第3は、人権を制約する「公共の福祉」の内容もまた中立的ものでなければならないことに気づくことです。学生がまず挙げるのは、生まれてくる子どもの利益です。しかし、「子どもの最善の利益」を具体的に挙げようと、そこに偏見や思い込みが潜んでいることがわかります。子どもに「障がい」があった場合の問題や、結婚していない男女や同性のカップルが代理出産を依頼した場合の問題を議論するときに注意を促す必要があります。
 第4は、問題の背後にある社会的・経済的な状況にも目を向けることです。代理出産を依頼する夫婦は、代理母や斡旋する業者に相当な額のお金を支払うことになります。家族を作る自由が人権であるにもかかわらず、現実には、裕福な夫婦しか代理出産の方法で子どもを持つことができません。また、代理母になる女性のなかには、経済的事情からがやむなく契約を結ぶ人もいるかもしれません。社会的・経済的格差が「自由」を奪っている現実を考えさせることも重要です。
 最後は、何が公共的理由か、それ自体が問題なのだということを自覚することです。「うまくいえないけど、代理出産はよくないと思う」と、小さな声で発言する学生がいます。代理出産にお金が絡むことに対して抵抗を感じるというのです。確かに、代理出産では、女性の出産を「労働」とみなし、その対価としてお金が支払われます。代理出産の契約は、生まれた子どもを引き渡す契約です。そこから、人間が「商品」とされることに対する抵抗感が生まれます。これは、道徳の問題でもあるが、人権の基礎にある「人間の尊厳」にもかかわる大事な問題です。
 このように、高校生でも大学生でも、教える側が適切なコーチングを行えば、代理出産をめぐる討議はかなり深まります。そして、大人が現実の政治で公共的な討議の「お手本」を示すことこそが、子どもたちの主権者教育にとって最も大切なことであることを大人は肝に銘じなければなりません。
 
【岩本一郎(いわもと いちろう)さんのプロフィール】

1965年生まれ。北海道大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。現在、北星学園大学経済学部教授。著書に、『北海道と憲法』(法律文化社・2000年)(共著)、『はじめての憲法学(第2版)』(三省堂・2010年)(共著)、『絵で見てわかる人権』(八千代出版・2011年)、『地域に学ぶ憲法演習』(日本評論社・2011年)(共著)などがある。