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映画『MAX アドルフの画集』

志田陽子さん(武蔵野美術大教授)
                                                           


 「戦争から帰ってみると家族も両親も婚約者も、すべてを失っていた。私に残ったのは自分は芸術家だという自信だけだった。」画家を目指しているという貧しい青年が、画商を営む裕福な実業家に語る。青年の名はアドルフ・ヒトラー。ユダヤ人画商の名はマックス。マックスは偶然出会ったこの青年に、発掘すべき才能があるのではという思いから、辛口な助言を始める。

 このマックスは架空の人物で、当時のヨーロッパ社会の中で経済的に成功し文化的にも尊敬されていたユダヤ人の若き化身のような存在だ。金持ちの親を持つ美人バレリーナの妻を得て、芸術家の愛人までいる。当然イケメン。洗練されたマナーと少々不良っぽい茶目っ気ぶりで、同性からも異性からも信頼され慕われている。アドルフでなくとも、見ていて腹が立つほど完璧な「イケてるやつ」である。一方、この作品中のアドルフは、あの歴史上の人物「アドルフ・ヒトラー」の無名時代の青年期を想像して描いたもので、史実に基づいた人物像ではなく、一つの仮説として描かれた人物像である。

 貧しいアドルフは、軍隊で一兵士としての仕事をこなす一方で、絵を描き続けている。そのアドルフに演説の才能があることに、軍の上官が目をつけた。
「演説の中身は空虚ですね、口が達者なだけです」。
「確かに空虚だ。彼は空虚な社会の申し子なのかも」。
 アドルフの演説は、聞く人々を次第に引き込んでいく。彼は、そのときだけ、まるで別人のように《生きている》のである。

 そんなアドルフの自己陶酔をマックスは冷ややかに突き放す。
「演説につぎ込むだけのエネルギーを絵につぎ込めればいい画家になれるだろう。絵は描いているのか」
「軍のおかげで生活できてるんだ。絵の具を買う金もない」
 マックスはアドルフに絵具を買うための前金を渡す。ついでにアドルフと一緒に自転車に乗り、女たちのいる遊び場にも誘い出す。二人の間には奇妙な友情が育っていく。

「君を好きになる努力をしてみたい。」とマックスは言う。奇妙な話だ。金持ちの酔狂か…。猜疑心がアドルフの表情に浮かぶ。「同情もほどほどにね。」と女たちは苦笑する。
 しかし《欠落を抱えている者》と《持つべきものを持っている者》との関係は、じつは逆なのだ。マックスは第一次大戦で右腕を失っている。その前には、彼自身が画家になりたかったことが、暗示される。今、彼が手に入れている成功のすべては、失った右腕の代わりのものでしかなく、そしてそれらは失ったものを本当の意味で埋め合わせてくれるものではない。一方でアドルフは、マックスが失った《一番大切なもの》を持っている。絵を描くための腕、というより、「自分は芸術家だ」という信念と欲望がそれである。アドルフを支援することは、マックスにとって、失われた自分自身を蘇生させることだったに違いない。

 アドルフは軍の上官に頼まれるままに演説を引き受け、次第に聴衆の数を増やしていく。アドルフの演説は、富の不正な吸い取りと集中を引き起こして《我々》を貧困に追いやっている《彼ら》への非難の度合いを強めていく。ユダヤ人マックスの人間的魅力に心を開き、マックスがさしのべた支援によって画家として世に出たいと望みながらも、演説の壇上でスイッチが入ったときのアドルフは、ユダヤ人殲滅を唱える扇動者になりきっているのだ。その憎悪の言葉の生々しさは、マックスへの嫉妬から生まれたものかもしれない。

 しかしもうこの物語は、二人の青年の自己修復と愛憎をめぐるドラマにはおさまらなくなってしまっている。民衆の心が、アドルフの扇動に感応して、動き始めているのだ。自分が一体何をやったのか、まだわかっていないアドルフは、マックスから支援を受ける約束を信じ、自分の作品が詰まった画集を抱えてマックスを待ち続ける…

   *   *

 この作品は、いろいろな角度から見ることのできる、含蓄に富んだ作品である。
 まずは、アドルフの演説が、昨今、世界でも日本でもその法規制の是非について議論されている「ヘイト・スピーチ」の典型だということがわかるだろう。
 残念ながら、日本では、京都や新大久保で起きた事件によって、「ヘイト・スピーチ」はメディアで日常的に取り上げられる言葉になった。「ヘイト・スピーチ」は社会のマイノリティに対して排撃的なメッセージを示す言論で、今日、ドイツやアメリカのいくつかの州などが、これを禁止し罰する法律を持っている。ドイツを代表とするヨーロッパ圏の国々でなぜヘイト・スピーチが処罰の対象となっているのか、どういう事態を防ごうとしているのかが、この映画を見るとかなり見えてくるだろう。

 この映画では、この憎悪感情のもとにある偏見が、それ自体はまったく根拠のない思い込みにすぎない、という本質もよく描かれている。貧困の苦しみ、状況への失望感・閉塞感が蔓延し、どこに出口を求めていいのかわからない、というときに、「彼らを倒せば出口がある」という偽りの希望を示されると、人々はその不条理な出口に進んで行ってしまう。そういう怖さの発端のところを描いてくれている。
 そういう怖い状況を止めるために、ヘイト・スピーチを規制する法律や警察力を使うべきか、それとも、このような状況を克服するにあたっては、私たちの市民社会の自発的な動きを信頼すべきか。日本でもこの議論が本格化している。この怖さを認識することがまず大事だが、その認識がそのまま拙速な(濫用されやすい)言論規制に傾くことのないよう、十分な議論が必要だろう。

 もう一つ、マックスがアート・パフォーマンスに形を借りて語る戦争観は、どの戦争にも共通の真実である。勇ましく美しい言葉を信じて戦場へ行ったが、現実の戦場では誰もが自分が生き延びるためになりふり構わず相手を殺す最低の人間になっていた、とマックスは語る。戦場に行った自分は騙されたのだ(もう騙されるのはよそう)と。これも、後のヒトラーがとった宣伝政策を暗示しているように見えるが、ナチス政権の問題だけではない、すべての戦争・戦闘に共通する欺瞞を描き出している。
 今年7月1日の「集団的自衛権」をめぐる閣議決定のあと、自衛官募集のコマーシャル映像が刷新された。マックスの自己をえぐって見せるパフォーマンスを、日本政府が流し始めた魅惑的な映像に並べてみるべきだろう。

 そして最後に、この映画のもっとも面白いところは、青年アドルフ・ヒトラーが、どこまでも凡庸な、どこにでもいそうな青年として描かれていることだろう。こんな髪型とルックスをした男の子がライブハウスの中でギターを鳴らし、マイクに向かって世の無情を叫んで、「これがアートだ!」といきまいている図は、いまの普通の日常の中に無数にありそうなことで、「まさかこんな青年に、後のドイツが巻き込まれたなんて?」と思わずにいられない。しかしそれこそが、この映画のコンセプトに違いない。これは、ハンナ・アレントのいう「悪の凡庸さ」を、その中心にいたヒトラーそのものにも当てはめた図なのである。
 後のヒトラーが行った壮大な自己演出や、結果的に起きた惨事の大きさから来るイメージをはぎとって、もともとの実像を見定めようとすれば、発端はこの程度のものだったのかもしれない、という仮説をこの映画は描いている。じつは、ヒトラーを特別な怪物として描くよりも、こちらのほうが怖い。あのヒトラーなる人物の姿は、社会のムードやニーズによって空中に照らし出されたホログラム映像のようなものだったのだとすれば、そんなホログラムを生み出していたのは誰だったのか? その問いが、私たち自身に避けようもなく向けられてくるからである。
この作品は、ハンガリー、カナダ、イギリスの合作となっているが、おそらくドイツで、ヒトラーを題材にしてこのような美的な作品を作ることは、まだ難しいに違いない。
 あれほどの巨大な悪の発端を、これほどにささやかな街角の《出会い劇》として描いたこの作品は、巨大な植物の柔らかな発芽の瞬間をとらえた接写写真のような濃さと魅力を備えている。

                    了

【映画情報】
製作公開年:2012年 、
上映時間:108分
監督:メノ・メイエス
出演:ジョン・キューザック、ノア・テイラー


 
                                                           


<「シネマDE憲法」関連情報>

「憲法を知ることは、リアルと普遍の間を何度でも行き来すること——『映画で学ぶ憲法』」志田陽子さん(武蔵野美術大学造形学部教授)



 

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