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映画『ミシシッピー・バーニング(Mississippi Burning)』

志田陽子さん(武蔵野美術大教授)
                                                           


ミズーリ、ロサンゼルス、そしてミシシッピー

 今年(2014年)11月、ミズーリ州で起きた警官による黒人射殺事件への不起訴決定は、市民の大きな反発を招いた。公権力行使のあり方を問う抗議行動はアメリカ中に広まりつつあるとの報道もある。公権力が特定の人種にだけ極度に猜疑的な姿勢をとり、その結果として反射的に最強度の制圧行動をとってしまうことが常態化しているとしたら、市民が公権力行使の公平性について重大な疑問を示すのは当然だし、その問題意識が全国規模で共有されることもまた当然のことだろう。問題は、これが《怒りの爆発》と《制圧に名を借りた報復攻撃》の反復応酬に陥らずに、是正の筋道に乗ることができるかどうかである。これはさまざまな差異を抱えながら存続する社会すべてに課せられた課題であり、日本ももちろん例外ではない。
 公権力が、人身・人命の尊重に照らして、特定の人種に不当に甘かったり特定の人種に不当に厳しかったりすることは、統治に対する信頼の失墜を招き、日頃の不公平感を爆発させる発作的な行動(アクティング・アウト)を招く。これは1992年のロサンゼルス暴動でも浮上した問題である。このときも今年のこの状況についても話題にのぼった映画がある。1964年に起きた公民権運動家殺害事件とその事件をとりまく状況を描いた「ミシシッピー・バーニング」である。
 
「今に始まった戦争じゃない」

 この映画の元となった事件は、ミシシッピー州のある町で、黒人有権者の投票を促進しようと活動していた運動家たちがこの町の警察官によって殺害されたという実際の事件である。映画のほうは、「法の適正手続」を派手に踏み外す暴力的捜査活動をクライマックスにもってくるという、いわゆるアクション刑事もの仕立てになっているが、その部分は「こういうことを実際にやったら裁判で証拠採用されなくなります」という反面教師として見ておくことにしたい。憲法を学ぶ者にとってこの映画が特筆すべき価値をもっているのは、この映画がいわゆる刑事事件解決のドラマにとどまらず、その事件をとりまく社会文化状況を見事に映像化している点である。
 派遣されてきた2名のFBI捜査官はこの事件の根の深さ、困難さから捜査の人数・規模を拡大していく。「やめとけ、そんなことをしたら戦争が始まる」と制止するアンダーソン捜査官に、ワード捜査官は答える。
「今に始まった戦争じゃない」
 ワード捜査官が言おうとしている戦争は、南北戦争だろう。アメリカは南北戦争でこの問題に決着をつけたつもりでいたが、とんでもない、ここではそれはまだ続いている、と。
 アンダーソン捜査官が警告したとおり、捜査規模が拡大されるにつれて、町の中ではこれに反発する黒人襲撃事件が起きる。ついには黒人の住居や集会所が次々に焼き打ちに合うことになり、これが「ミシシッピー炎上」というタイトルそのものの光景が繰り広げられる。

「憎悪」の問題を正面から見据えた作品

「なぜ、こんな憎しみが?」
「親父が本当に憎んだのは黒人じゃない、憎んだのは貧乏だった」
「(あの人たちは)性格が悪いし、お風呂に入らないから臭いしね」
「もう我慢するのはたくさんだ」
「私はミシシッピーを愛している! よそ者どもが起こしている騒ぎからミシシッピーを守ろう!」
「憎しみは最初からあったわけじゃない。教えられたの。聖書にそう書いてあると。学校に行く頃にはもうみんなそれを信じてる」
 この映画の中では、それぞれの登場人物が憎悪について語る。あるいはその憎悪を自分では意識していない《善意の人々》が、自らをくるみ込んでいる《憎悪の文化状況》を体現する言葉を無邪気に語る。
 憎悪はたしかに美しくないものだから、自分のことを心の美しい善良な人間だと思っていたい普通の人々(つまり私たち)にとっては、憎悪なるものの出所を直視するのは困難な作業である。憎悪から生じた現象(爆破炎上というアクティング・アウト)は見た目に派手な映像となりうるが、「憎悪」それ自体はとらえどころのないものである。この「憎悪」それ自体を問いの対象として追求する姿勢が、この作品全体に普通のアクション映画とはまったく異質の生命を与えているように見える。
 そしてようやく実行犯のほとんどが逮捕されたとき、ワード捜査官は言う。
「見て見ぬふりをした者はみんな有罪だ。我々もだ」
 これはこの町の町長に向けた言葉である。一般人みんなの心に訴えかけくる罪悪感や責任、という道徳的意味にとるべき言葉なのだと思うが、憲法を学ぶ者にとっては、ここにもう一段の深読みを入れたくなる。文化の中に強固に根付いてしまった差別や憎悪の問題に、公権力(政府や自治体)が負う責任の問題として、この言葉と町長の顛末を考えてみたくなるのである。この状況で見て見ぬふりをする「自由放任」は、「憎悪の許可」として差別状況を助長し増幅してしまう。ここで町長は、本来ならば、どのような責任を果たすべきだったのか。

傷だらけの希望

 この作品は、ただ憎悪の炎上を延々と描いて終わっているのではない。希望は描かれている。その希望が、一人の黒人少年と一人の白人の女性に託されていることは示唆的である。とくにここでは、傷だらけになった一人の女性の顔が、この物語の未完の総括を語っている。
南北戦争の前後にも、奴隷制廃止運動(黒人の解放・平等)と婦人参政権運動(女性の解放・平等)とは、連帯すべきか別問題とすべきかという岐路に立たされ、結果的に分断の道を歩んだ。その分断が正しかったのかどうか。彼女の存在は、かつて失われた大切な連結の要(かなめ)を象徴しているように見えるのである。
 どこかへ引越す気はないのかと問われ、彼女は首を横に振る。その顔には、それまでにない爽やかさと自信がある。たしかに不平等と憎悪の問題は、人間社会に必ずつきまとうものだ。どこかに引越せばそれがない世界に行けるというものではない。私たちは、それぞれに自分の属する社会の中で、この問題の克服の道を模索し続けるしかない。彼女が示唆する希望は、辛口な、小さな光だが、傷跡だらけの顔で微笑む彼女の顔は晴れやかだ。
 憎悪がもたらす状況を嫌悪することはたやすい。しかし私たちは、彼女のように傷を負いながら、そこに留まってこれと立ち向かう勇気を持ち得るだろうか。

【映画情報】
製作国 アメリカ
公開  1988年12月9日
上映時間 128分
監督  アラン・パーカー
脚本  クリス・ジェロルモ
出演者  ウィレム・デフォー、ジーン・ハックマン他


 
                                                           


<「シネマDE憲法」関連情報>

「憲法を知ることは、リアルと普遍の間を何度でも行き来すること——『映画で学ぶ憲法』」志田陽子さん(武蔵野美術大学造形学部教授)



 

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