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映画『アメイジング・グレイス Amazing Grace』

志田陽子さん(武蔵野美術大教授)
                                                           


 奴隷制廃止に政治生命を賭けた政治家といえば、誰もがまずリンカーンを思い浮かべるに違いない。このコーナーで紹介されたこともある映画「リンカーン」は憲法修正条項採択(「憲法改正」)をめぐる見事な政治ドラマである。
 しかし19世紀半ば、アメリカは当時の国際社会から批判を受けており、奴隷制廃止を遅れて実現した国である。「アメイジング・グレイス」は、リンカーンが活躍したアメリカ南北戦争より半世紀以上早い18世紀末、アメリカ独立とフランス革命が相次いで起きる市民革命期にイギリスで奴隷貿易廃止のために尽力した二人の青年政治家を描いている。主人公は国会議員ウィルバーフォース(愛称ウィルバー)。もう一人は史上最年少(24歳)で首相になったウィリアム・ピット。二人は20代の若さで奴隷制廃止に乗り出す意志を固め、政界に打って出る。

 ウィルバーは彼自身が貿易活動を行う商人であり、成功者である。彼は自らの商業活動を通じて知ることとなったプランテーションでの奴隷労働(とくに児童の状況)の惨状に心を痛める。自分の家で奴隷を使わないことにしたところで、奴隷の使役から富を得ているという事実は、彼の精神を苛みつづける。神への信仰によってこの苦しみから救われる道か、政治の世界に乗り出してこの制度を改革する道か。首相への道を歩むと決めたピットは、ウィルバーに政界を選べと迫る。それは、当時の財界議員のほぼ全員を敵に回すことを意味していた。

「みんなに本物の歌を聞かせたい」
 ピットはパブで酔っ払っている議員たちの前にウィルバーを引っ張り出す。ウィルバーは大学では歌でならしたという本格的な歌唱者だ。彼が歌ったのは、ある牧師が作った歌だ。かつて奴隷船の船長だった人物が、仕事の内容の残酷さに耐え切れず牧師へと転身し、黒人たちへの懺悔と鎮魂のために作った歌だった。「アメイジング・グレイス」、この有名な歌は、今もさまざまなアーティストによってカバーされ、歌い継がれている。
 伴奏はない。騒がしいパブでは、ウィルバーの歌にまともに耳を傾ける者もなく、議員たちは冷笑を浮かべるか、からかいの野次を飛ばすかのどちらかだ。そんな中でウィルバーは一人、歌い続ける。
静かに、少しずつ、賛同者が増えていく。しかしその活動を続けることは、ウィルバーの心身の限界を超える重圧となっていく。

 この物語は、奴隷解放と人身売買禁止をめぐる政治ドラマとして見ることも可能だが、もう一つ、財界の意向が圧倒的な主導力をもつ議会政治の中で、経済利益よりも重大な政治道徳が存在することを主張し続けた志士たちのドラマとして見ることも可能である。どちらの軸で見るにしても、今まだ克服されたとは言えない、世界的な憲法問題である。そして後者の軸でこのドラマを見たときには、このドラマの含意は大きく広がっていく。ウィルバーやピットや元船長を苦しめ続けた良心の呵責の問題は、現在の多くの問題に――とりわけ武器輸出問題やエネルギーと環境の問題や不正な労働関係に――そのまま通じているからである。

 さて、憲法を学ぶ者から見ると、この映画の中に、こんな興味深いシーンもある。
 ウィルバーが39万人もの署名を集めて議会に登壇するシーンである。イギリスの庶民のうち奴隷制に反対する者がこれだけいるのだ、ということが示されるのだが、財界議員たちは、議会の決定は「群衆」によってなされるものではないとしてその署名の価値を黙殺しようとする。ウィルバーは思わず、「民衆の声voice of the peopleを無視することはできないはずだ」と声を荒げて叫ぶ。今ならば、近代憲法の土台にある国民主権・人民主権のことを指す言葉として共有されている言葉である。しかしこの瞬間、議員たちは、言質を取ったぞと言わんばかりに眉をひそめてその不穏な一言を囁き合うのである。さらには同士ピットまでが、「扇動罪の疑いを受ける」と案じて、ウィルバーの交友関係を咎める。その言葉の中に、アメリカ建国の父の一人であるトマス・ジェファーソンの名前が出てくる。
市民革命がいままさに起きつつあるこの時代には、イギリスはまだ革命の余波を恐れていた。その微妙な足場の上で「人間の平等と解放」を主張することは至難の業だったことがよくわかる。

 「声」と出たところで、歌唱者としてのウィルバーの「声」も、この映画の大切な伏線だ。
 ウィルバーは人々に大切なことに気づいてもらうために歌っていたのだった。「アメイジング・グレイス」のおかげで政界のスターになったことなどは、彼にとって苦々しい出来事でしかない。消耗しきった彼は、やがて歌う声も出なくなっていく。
「君は若さと健康を犠牲にしてやってきた。あとは後任に託したらどうだ。」と友人はウィルバーに忠告する。その彼を支えたのが、後に妻となるバーバラだ。彼女は、自身も社会福祉に大いに関心を持つ運動家である。
「奴隷制の話など」
「いいえ。続けるべきよ」
 奴隷貿易禁止法案は何年経っても可決には至らず、その提出は年中行事のようになっている。称賛者は多い。しかしウィルバーの目標は自分が有名になることではない。抑え込んできた激しい苛立ちを思わず吐露した瞬間、ウィルバーとバーバラの間には特別な絆が生まれる。
 ウィルバーとバーバラとの結婚式では、この歌が讃美歌として歌われる。その合唱の中で、ウィルバーが自分の声を取り戻していく姿は、この物語の全体を象徴しているように見える。

 彼らの努力の物語は、文字通り、未完の物語である。彼らが闘ったものは、人間社会に常に形を変えて現れてくる、終わりのないものだからである。
さて、《若さ》を何のために使うか。疲れを深く刻み込んだウィルバーが最後に議会で見せる顔は、そんなことを思わせてくれる美しい老いの顔である。

【映画情報】
製作国 :イギリス
公開 :2006年
上映時間:118分
監督 :マイケル・アプテッド
脚本 :スティーブン・ナイト
出演者 :ヨアン・グリフィズ、ベネディクト・カンバーバッチ他


 
                                                           


<「シネマDE憲法」関連情報>

「憲法を知ることは、リアルと普遍の間を何度でも行き来すること——『映画で学ぶ憲法』」志田陽子さん(武蔵野美術大学造形学部教授)



 

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