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映画『あん』


坪井龍太さん(東洋英和女学院大学准教授)
                                                           

 2015年に封切りとなった『あん』は、ハンセン病患者隔離政策の人権問題としての深刻さを、どんでん返しも何もなく、冷静に描くそのストーリーで、多くの映画ファンを魅了した。同映画は、主演の岩井徳江役の樹木希林、助演の辻井千太郎役の永瀬正敏の好演とともに、1996年のらい予防法廃止まで、長く続けられたハンセン病患者・元患者(回復者とも呼ばれる)の隔離政策を描いている。また河原直美監督の見事なカメラワークに固唾を呑む思いをした人も多いはずだ。『あん』については、法学館憲法研究所「シネマ・DE・憲法」でもすでに取り上げられている(2015年6月29日)。
 封切りから2年が過ぎた。映画も芸術である以上、制作者の手を離れ、鑑賞する側の視点から作品が再構成されてもよいであろう。今回は、主役の岩井徳江ではなく、辻井千太郎に焦点をあてて(千太郎が主役という視点を敢えてもつ)、『あん』を読み解いていく。すると、罪を犯した人の更生という、憲法を学ぶ者にとって、重要なテーマがクローズアップされてくる。いわゆる「ネタバレ」ではあるが、千太郎が罪を犯して服役経験を持つことを前提に、あらためて映画『あん』を見てみたい。
 映画は千太郎の起床後、一人暮らしのアパートの304号室を出て、屋上で喫煙をするシーンからはじまる(2015年制作の映画で喫煙シーンがあるのも意外である)。起床したばかりの朝だというのに、どんよりとした空、そして精彩のない千太郎の表情は、彼の過去が暗いものであることを漂わせる。しかし、季節は桜が満開の頃、人々は新しいことのスタートを予感しているかのようだ。ほどなくして高齢の岩井徳江が鉄道の踏切を渡るシーンが現れ、中学3年生になったばかりの若いワカナ(内田伽羅)が、母親と高校受験について線路端の道路上で語り合うなど、老若問わず人々の日常が描かれる映画であることが示唆される。
 千太郎は、「どら春」というどら焼き屋の雇われ店長だ。「どら春」に雇われる3年前、働いていた酒場で、けんかの仲裁から暴力を振るう側に回り、一人の人間に重い障害を背負わせてしまい、実刑判決を受け、刑務所で服役をする。しかしながら、原作のドリアン助川『あん』(2015年、ポプラ文庫)の小説では、比較的早い段階で千太郎の服役経験が語られるのに対して、映画『あん』のなかでこのことが語られるのは、映画開始ちょうど90分後である。つまりストーリーを知らない視聴者は、90分間、千太郎が刑務所の服役経験をもつことに、おそらく想像も及ばない。なお、原作では、大麻取締法違反で服役を経験したというストーリーであるが、原作が大麻取締法違反で、映画は傷害罪であることの異同は、ここでは問う必要がないであろう。
 「どら春」は庶民の店である。1個120円のどら焼きを、カウンターでおしゃべりをしながら頬張る女子中学生でにぎわう店だ(ちなみに原作は1個140円である)。女子中学生たちは雇われ店長の千太郎のことを「千ちゃん」と呼び、「千ちゃんの態度が素っ気ない」と笑顔をなかなか見せない千太郎のことをちゃかす。そこに同じ中学生のワカナも現れ、ワカナの家庭が決して恵まれていないことに気づいている千太郎は、「出来損ない」のどら焼きをワカナに無料で分け与える。映画のなかに「出来損ない」という言葉が出てくるシーンが3回あるが、暗示的な言葉として用いられている。
 そして76才の吉井徳江が「どら春」に姿を見せる。店の前に張られた求人広告を見て、「私も働きたい。どら焼きのあんを作りたい」と千太郎に懇願する。14才からハンセン病療養所に暮らす徳江は、人生の晩年、社会に貢献してみたかったのだろう。しかし、千太郎は76才の高齢者に飲食業が勤まるとは思っていない。千太郎は徳江の懇願を固辞する。寂しい徳江は満開の桜を見て、「この桜、誰が植えたのだろうね」と千太郎に問う。千太郎は「ここで育ったわけではないんで」と、自分の過去を口ごもる。
 翌日も「時給200円でも働かせて欲しい」と懇願しにくる徳江の指が、不自由であることに千太郎も気づく。千太郎はハンセン病の知識もなく、徳江の指の不自由さがハンセン病の後遺症であることには思いも及ばない。実は千太郎は、自分ではどら焼きの生地を焼くだけであった。あんは作っていなかった。業務用のあんを購入していたのだ。そのため試作品のあんを作ってくる徳江から、あん作りの秘訣を教えてもらいたいという思いもあった。そこで千太郎は徳江を雇うことにした。徳江は言う、どら焼きのあん作りの仕込みについて「お天道様が顔を出す前に始めないと」。この映画で「お天道様」すなわち太陽は表舞台には現れない。そのかわり「月」、特に「満月」が重要な場面を象徴する。「お天道様」信仰からすれば、すべてを知っている「お天道様」にはあたることができないと感じている、千太郎や徳江を象徴するものかもしれない。
 徳江は全力であんを炊く。徳江は「がんばりなさいよ」とつぶやく。千太郎はハッとするが、徳江は「小豆に言ったのよ」と笑う。できあがったあんを千太郎の焼いた生地で包む。絶品のどら焼きができた。千太郎は「あの甘党じゃないんです。どら焼き全部食べることないんです」と正直に徳江に言う。千太郎は好きで「どら春」で働いているのではなかった。「どら春」の先代のオーナーに、千太郎が傷害を負わせた被害者への、多額の慰謝料を肩代わりしてもらっていたのだ。
 徳江と千太郎で作ったどら焼きは売れた。客から評価される千太郎は素直にうれしかった。評価されること、それは罪を犯して更生を目指す者にはどれほどありがたいことか。しかし、徳江と千太郎のどら焼きは長くは売れなかった。徳江の指の不自由さが客の間でも評判となり(ワカナも母親にそのことを伝えていた)、徳江がハンセン病元患者であることが、客足を遠のかせた。ハンセン病患者・元患者への差別はまだ終わっていなかったのだ。
 徳江は「どら春」に働きに来なくなった。千太郎とワカナは、ハンセン病の療養所まで徳江に会いに行った。ハンセン病の療養所について、原作では天生園となっているが、映画では全生園と実在の名称が用いられている。徳江は親友の佳子(市原悦子)とともに、千太郎とワカナに会った。ハンセン病のことをよく知らなかった千太郎とワカナにとって、徳江の生き様は、心に突き刺さるものであった。千太郎にとって、服役中に逝った母は徳江と同じ年ぐらいであった。徳江にとって、旧優生保護法下で「授かったのに産むことを許されなかった(中絶を強いられた)」子どもは、千太郎と同じ年ぐらいであった。徳江は翌年の桜の開花を待たず、人生を終える。そして徳江の死後、全生園にはソメイヨシノが一本、植えられる。
 千太郎は徳江の生前、服役経験と服役中の母の死について手紙で吐露し、「誰の言葉も聞いてあげられる自分ではありません」と述べる。徳江は死後、カセットテープにこんな声を千太郎に残す。「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのです」。
閑話休題。徳江を演じる樹木希林、ワカナを演じる内田伽羅、この二人が実際の祖母と孫との関係であるという。それを知ってその絡み合いを見ると、名女優、樹木希林が孫に目を細めているのが良く解かる。また河原監督のカメラワークも巧みである。ほとんどが肩かけの可動カメラでの撮影で、役者の生き生きとした表情をとらえている。しかし、全生園内の納骨堂前では、固定カメラでの数少ない映像で、重厚なその様が写されている。映画ファンなら気づいたであろう。
 『あん』のロケ地であるハンセン病療養施設の全生園(東京都東村山市)は、可能であればぜひ訪れ、自分の目で見て欲しい。ロケで使われた食堂「なごみ」は誰でも利用できる。全生園での学びを活かす試みは、拙稿「ハンセン病医療の歴史を学ぶことを通じて生命倫理学を教職課程で活かす試み」日本生命倫理学会『生命倫理 VOL.26 No.1』2016年を参照されたい。
 罪を犯した人の更生が可能な社会に向けて、大きな一歩は無理としても、小さな一歩でも進めるのが、憲法、人権について学ぶ者の務めではないだろうか。しかし、罪を犯した人までを立ち直りの射程範囲とすることは、おそらく困難もあろう。
 筆者は自身の元公立高等学校の教員としての経験から、長期の不登校の経験者や全日制高校の中途退学者が、「もう一回のチャレンジ」をできる公教育での居場所を求めているケースには、なんとか暖かい眼を持つ社会になって欲しいと思っている。原作『あん』では、ワカナは公立高等学校の定時制課程に進学する。今度はワカナを敢えて主役にして、映画『あん』を語ることはできないであろうか。『あん』は「あ」から「ん」まで、みな等しいという願いが込められていると筆者は考えている。

公式ホームページ

【映画情報】
制作年:2015年
制作国:日本
上映時間:113分
監督・脚本・編集:河原直美
出演:樹木希林、永瀬正敏、内田伽羅、市原悦子ほか

 

 
                                                           


<「シネマDE憲法」関連情報>

「憲法を知ることは、リアルと普遍の間を何度でも行き来すること——『映画で学ぶ憲法』」志田陽子さん(武蔵野美術大学造形学部教授)



 

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