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北海道(2)

 
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旭川学テ訴訟
Y.M.記

 公教育の場面においては、そこで実施される子どもに対する教育内容を一体誰が決めるのか、という問題が生じてきます。教育内容の決定権、つまり「教育権」と呼ばれますが、これについては従来、国家がもつという考え方(「国家の教育権説」)と親や教師を中心とした国民がもつという考え方(「国民の教育権説」)が対立してきました。
 しかしながら、このような極端な二者択一的な思考に対して再考を迫り、「教育を受ける権利」の原点である子どもの視点から教育権を捉え直そうとする判決が出されます。それが、いわゆる「旭川学テ事件」最高裁判決です。

 1961年10月26日、当時の文部省は、「全国中学校一斉学力調査」(学テ)と呼ばれる全国統一学力テストを実施しました。ところが、これに先立つこと同年6月に、日本教職員組合(日教組)は、学テは教育の国家統制を促進し民主教育を崩壊させるとして、全国的な反対闘争を行うことを決定していました。
 これにより、学テが実施された当日、北海道旭川市の市立永山中学校において、これに反対する教師Yらが学テの実施を阻止するために、校長の制止や退去要求にもかかわらず、学内に侵入して実力阻止行動を行いました。そして、Yらは、これらの行為により建造物侵入罪、公務執行妨害、共同暴行罪などによって逮捕・起訴されたのです。

 1966年5月25日、第1審旭川地裁は、Yらが主張する学テの違法性を認め公務執行妨害は成立しないとし、Yらの建造物侵入と共同暴行罪の成立のみを認めました。1968年6月26日、検察・被告ともに控訴した第2審札幌高裁でも、同様の判断がなされます。
 これに対し、1976年5月21日、最高裁は、原判決を破棄します。そして、Yらが最高裁の段階で新たに主張した「教育権」の所在に関する憲法論について、次のような判断を行ったのです。
 最高裁によれば、「国家の教育権説」や「国民の教育権説」のような「2つの見解はいずれも極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできないと考える」。そして、日本国憲法26条が規定する「教育を受ける権利」の「規定の背後には、・・・特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる」のであって、このことから「・・・教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない」のである。
 以上のように、最高裁は、「教育権」の所在に関するこれまでの二者択一的な思考方法を「極端かつ一方的」なものとして退け、その代わりに教育を受ける子どもの視点に立った「学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利」、すなわち「学習権」という考え方を全面に打ち出したのです。もっとも、本判決自体は、「必要かつ相当と認められる範囲において」という形で、国家に対し教育に関する権限を広く認めている点は問題です。しかし、最高裁が子どもの視点に立った「教育権」の発想を認めるに至ったということは、強調してもなおし過ぎることはないでしょう。

 いわゆる「学テ」の実施は、本件第1審判決が出た1966年以降中止されていましたが、1980年代の初頭から小中学生の一部を対象として再び実施されるようになり、そして2007年4月24日、文部科学省は、小中学校の最終学年全員を対象とした全国一斉学力テストを43年ぶりに実施しました。しかしこれに対し、愛知県犬山市教育委員会が、教育に競争を持ち込むことになるとして不参加を表明したことは注目しておくべきでしょう。2006年12月15日に成立し、愛国心を教育の目標のひとつとして盛り込んだ改正教育基本法に象徴されるように、近年教育に対する国家の統制が急速に高まりつつあります。一体「教育」とは誰のためにあるものなのか、この素朴な問いについて、とりわけ現在、「学習権」の発想に立ち返ってもう一度考えてみる必要があるように思われます。

教育の地方自治原則―教育委員会はそれを生かしているか

大橋基博(「憲法の理念を生かし、子どもと教育を守る愛知の会」代表代理、名古屋造形芸術大学短期大学部教授)

 最高裁学テ判決から32年。教育界は子どもの学習権を守ってきたのか。いじめによる自殺者、不登校の子ども、授業料滞納のため退学する高校生・・・。
 政府の教育再生会議は、第3次報告(07年12月25日)で、「徳育」の教科化、競争原理の導入、学校の統廃合などを提案した。それは新自由主義と国家主義に基づくもので、子どもと父母、教師からゆとりを徹底的に奪うものである。その根幹に全国学力テストが位置付いている。子どもの側に立てば反対すべきものである。
 全国学テは子どもと学校を全国的な序列のもとに置き、競争と格差を生み出す。国は学テにより各地域、学校の問題・課題がわかるので学力向上に役立つといっている。では大学入試センター試験の結果で各高校の「学力」は判明していると思われるが、その結果を「活用」して「学力」向上策は取られているのか。国の説明がまやかしであることは明らかである。
 最高裁学テ判決は、教育権の所在に関する判断を示すだけでなく、教育の地方自治原則を現行教育法制における重要な基本原則の一つと評価した。それゆえ文部省が直接に学テを実施したのではなく、教委が独自の立場で判断し決定し学テに参加したと立論した。学テの適法性を証明するにはこのような形式的な論理展開をせざるを得なかったのである。
 今、全国の教委は、どのような「独自の立場」でどのような「判断」「決定」をしているのか。愛知では、犬山市のみが学テに参加しなかった。犬山市教委は全国の教委の中で学テについて最も議論した教委である。不参加の最大の理由は、学テは犬山の子どものためにならないというものである。
 それでは愛知県内の他の教委はどのような議論をしたのか。本会および愛知県教職員労働組合協議会は、各教委が07年度の学テ参加について委員会でどのような議論をしたかをそれぞれ独自に調査した。その結果ほとんどの教委が議論らしい議論抜きで参加決定をしていたことが判明した。中には教委の会議にすらかけず教育長決済という形で参加決定をしたところもある。本会は08年度の学テについては、教委で十分議論し、不参加決定をするよう要請した。
 今日、私は地元の市の教育委員会定例会を傍聴した。学テが議題であった。事務局説明の後、10分弱委員が発言した。「子どもたちは普通のテストと同じだと思っています」「学校の課題がわかれば結構だ」「自分の子どもが全国のなかでどれくらいの位置にいるか知りたい」・・・。
 これが「独自の立場」からの「判断」「決定」の理由であった。教育の地方自治は制度としては保障されている。しかしそれを子どもを守るために活用するためには一人ひとりの住民が声を上げ、行政・教育委員会に働きかけていくことが必要だと痛感した。
 憲法は与えられるものではなく獲得するものであるから。