法学館憲法研究所は、憲法を系統的に研究し、個人の尊厳の実現をめざす非政府組織としての自由な研究機関です

法学館憲法研究所

Mail info@jicl.jp


 

岩手

<<戻る
進む>>
一覧表へ>>
岩手靖国違憲訴訟

 1979年12月19日、岩手県議会は「靖国神社公式参拝を実現されたい」という国に対する意見書を採択し、政府に陳情書を届けました。岩手県民は、これは憲法の政教分離の原則に反するとして、それに要した印刷代・用紙代・旅費を返還せよと訴えました。
 なお、この裁判の途中、岩手県が1962年から靖国神社の要請で玉串料や献灯料を支出していたことが発覚しました。そこで、裁判はその玉串料や献灯料の返還の訴えもあわせて一つの訴訟となりました。

 1987年3月の第1審(盛岡地裁)は県の行為を合憲としました。しかし1991年1月10日の仙台高裁は違憲としました。その後最高裁は県の上告を却下し、この裁判は高裁判決をもって確定しています。
なお、この件については「岩手靖国違憲訴訟」として本になっています。また、Webサイトでも裁判の経過を確認できます。

 いまあらためて憲法20条を確認していきたいと思います。
 当研究所の伊藤所長はこのWebサイトの憲法逐条解説でこの規定について次のように述べています。

 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 西欧諸国においては、信教の自由は、教会権力からの解放という意味をもち、すべての精神的自由の原型ともいうべきものでした。本条1項前段には、信仰の自由、宗教的行為の自由、宗教的結社の自由が含まれています。さらに1項後段、3項及び89条前段において政教分離原則を規定しました。国家が特定の宗教と結びつくとき、異教徒や無宗教者に対する宗教的迫害が行われた人類の苦い歴史があります。こうした少数者の心境の自由への侵害を避けるために、国家の非宗教性、宗教的中立性が要請されるのです。
 明治憲法時代は、天皇を神として崇める神社神道を事実上、国教として扱い、国は軍国主義政策の精神的基盤としてこれを利用してきました。その反省に基づいて、日本においては特に誠治権力が宗教を利用することを厳格に禁じているのです。よって、内閣総理大臣による靖国神社参拝のみならず、天皇家の行なうさまざまな宗教的儀式に公金を支出することも問題です。
 (2006年6月23日)

 憲法の政教分離の規定とその趣旨については当研究所双書『憲法の本』でも確認していただきたいと思います。

<投稿> 政教分離を求める市民の運動が国家の違憲違法に歯止めをかけた

澤藤統一郎(盛岡市出身・弁護士・「岩手靖国違憲訴訟」弁護団)

 法は弱者のためにある。司法は、弱者を救済する手続きである。換言すれば、法は常に強者に対する掣肘である。
 法が警戒する最大の強者は国家であって、法は国家の枷でありくびきである。いかに民主的な手続きにより国家が形成され運営されたとしても‥。為政者はこのことを肝に銘じ、心しなければならない。
 法に無知な為政者と、法の精神を理解しようとしない政権が続く限り、司法と法律家の役割は限りなく大きい。

 「岩手靖国違憲訴訟」は、司法が国家の違憲違法に歯止めを掛ける役割を果たした典型である。
 首相の公式参拝に司法はどう判断をしているか。それを知るには、まず岩手靖国訴訟・仙台高裁判決に目を通さなければならない。ついでに、小著「岩手靖国違憲訴訟」(新日本新書)をお読みいただきたい。「天皇と首相の靖国神社公式参拝は違憲」「県費からの玉串料奉納は違憲」と明快なのだ。

 私は岩手県盛岡の生まれ、父方のルーツは黒沢尻、今は北上市という。1978年、その北上市に「政教分離を守る会」という市民運動組織ができた。宗教家と教育者と社・共の地域活動家などがこれに参加した。国家神道が臣民の心の内奥を支配したことについての苦い記憶と、靖国公式参拝実現へのへの危機意識が、この市民運動を立ち上げた。そして、この人たちの運動が盛岡にも飛び火して、岩手靖国訴訟を立ち上げた。

 当時、「英霊にこたえる会」(その初代会長が「ミスター最高裁」と言われた石田和外元最高裁長官)を中心とした右翼勢力が、靖国神社国家護持運動から転じて、天皇・首相の靖国神社公式参拝促進運動に取り組んだ。
 県議会で37、市町村議会レベルでは1548の「公式参拝促進を求める」決議が成立した。これに対して、「訴訟を提起して一矢報いよう」と発想したのは、岩手のみであった。政教分離を求める市民の運動あればこその訴訟であり判決である。

 未成熟な国家ほど、精神の内奥に立ち入って国民を支配しようとする。宗教もマスコミも教育も、国家と結びつくときは国民支配の道具とされる。戦前の天皇制国家が、臣民に国家神道を強要し、教育勅語と国定教科書で教育を支配し、さらには大本営発表と検閲で情報を操作した。過去のことではない。国民の耐えざる批判なき限り、その愚は繰り返されかねない。その危惧は切迫している。

 政教分離とともに教育も危機にある。私は、東京都・石原教育行政の異常な「日の丸・君が代」強制と闘う訴訟の弁護団員の一人である。いわゆる予防訴訟において、昨年9月21日に東京都の教育支配を違憲と断罪する判決を得た。このことは、岩波ブックレット「日の丸・君が代を強制してはならないー都教委通達違憲判決の意義」に詳しく書いた。お読みいただけたらありがたい。

(澤藤統一郎さんの「今週の一言「9条がんばれ!弁護士と市民がつどう『第9』コンサート」及びプロフィールはこちら
 澤藤統一郎の憲法日記・連載中