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秋田

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花岡事件
T.O.記

 アジア・太平洋戦争の最中、日本は労働力不足に悩み、中国から労働者を強制的に連行し、労働させるという政策をとっていました。戦後直後に外務省が作成した「華人労務者就労事情調査報告」によれば、強制連行された中国人は3万8935人にのぼります。

 秋田県花岡町(現大館市)には花岡鉱山という日本屈指の鉱山があり、鹿島組(現鹿島建設)花岡出張所で、延べ986人の中国人が強制労働に従事させられていました。その労働実態は、奴隷と呼ぶにふさわしいもので、長時間の重労働に加え、十分な食事も与えられず、鹿島組職員らによる暴行・虐待も日常的に行われていました。こうした中で、何人もの労働者が死んでいきました。

 このような過酷な状況に耐え切れなくなった中国人たちは、1945年6月30日、ついに暴動を起こしました。しかし、この暴動は、憲兵隊や警察によってただちに鎮圧され、暴動に加わった中国人たちは、激しい拷問を受けました。この鎮圧行動・拷問の中で、100人以上の中国人が殺されたと言われています。これが「花岡事件」と呼ばれる事件です。こうした事件などもあり、花岡出張所では、強制連行された986人の中国人のうち、418人が死亡しました。これは、他の事業所での死亡率(全国で17.5%)に比べても、著しく高い死亡率です。

 1990年6月、「花岡事件」の生存者や遺族が来日し、鹿島建設に対し、謝罪と賠償を求める交渉が行われました。そして同年7月、両者は、共同声明を発表しました。この声明の中で、鹿島建設は「花岡事件」が強制連行・強制労働に起因するものであり、企業としてその責任を認め、謝罪を表明しました。しかし、鹿島建設が賠償や記念館設立に応じなかったため、1995年6月、遺族らが賠償を求めて東京地裁に提訴しました。

 1997年12月10日、東京地裁は、本人尋問や証拠調べをしないまま、除斥期間の経過(民法724条後段)を理由に、原告敗訴の判決を言い渡しました。原告らが控訴したところ、1999年9月、東京高裁が和解を勧告しました。20回の交渉を経て、2000年11月28日、双方が東京高裁の和解案を受け入れることで合意し、翌日、東京高裁で和解が成立しました。

 和解の主な内容は、次のようなものです。(1)1990年7月の共同声明を再確認する、(2)受難者を慰霊するための「花岡平和友好基金」創設のために鹿島建設が5億円を中国赤十字に信託する、(3)和解は花岡事件の解決を図るものであり、遺族は一切の請求権を放棄する。

 この和解については、(1)について、鹿島建設の法的責任を認めるものではないとされていること、(2)の基金は補償でも賠償でもなく、謝罪の意味が含まれていないこと、遺族らが求めてきた記念館の設立も含まれていないことなどから、和解成立後に一部の原告らが和解を受け入れないという声明を発表するなど、最終的な解決をしたとは必ずしもいえない状態にあります。

 とはいえ、企業自身が強制連行・強制労働の事実の確認や謝罪を「共同声明」として行ったことは、戦時中に強制連行・強制労働を行っていたその他の多くの企業が認めていないことと比べても、意義があるのではないかと思います。この和解で成立することになった基金を有効に使って、強制連行・強制労働問題の解決につなげていく必要があると思います。