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福島

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松川事件
H・T

1949年8月17日未明、日本国有鉄道(JR各社の前身)東北本線金谷川―松川両駅間(現在の福島市松川町)で、上り旅客列車が脱線転覆し、機関車乗務員3名が死亡しました。レールが1本、完全にはずされていました。国鉄労組と東芝松川労組の各幹部・活動家らによる共同謀議に基づく列車転覆罪として、両労組関係者20名が起訴され、1審は検察の主張をほぼそのまま認め、5人の死刑を含め全員を有罪としました。

この事件当時は労働組合活動が活発になり、革新政党の議会進出が注目を浴びていました。そして、公務員・国鉄職員や民間企業の大量の人員整理・合理化が発表され、これに抵抗する労働争議が各地で激しく闘われていました。占領軍や当時の吉田茂内閣は、徹底的に弾圧する姿勢を見せていました。事故発生直後本格的な捜査も開始されていない段階で、内閣官房長官は、「三鷹事件をはじめ、各種事件と思想的底流において同じである」という談話を発表しました。この事件が起きた1か月余の間に、「下山事件」、「三鷹事件」など国鉄関連の不可解な事件が続発していました。これら3事件を含むいくつかの謎の事件の影響により、「労働運動は悪である」というイメージが広がり労働運動は大きな打撃を受けました。

1959年、最高裁判所は、2審判決を破棄し、高裁に差戻しました(評決は7対5)。「諏訪メモ」と呼ばれる証拠が新たに提出され、共同謀議の存在が崩れたことが、その大きな根拠になりました。事実究明のために決定的な意味を持つこの重要証拠を、検察は捜査段階から手元に置いたまま隠匿し、弁護側の提出要求で法廷に出されたのでした。また、判決は自白の信用性に強い疑問を投げかけました。しかし、偽りの自白を押し付け、証拠を隠した警察・検察の責任には触れませんでした。

裁判所の姿勢を変化させた要因の一つに、「無実の者を殺すな」「公正な裁判を」という草の根の「松川を守る会」を底辺とする市民・大衆による広範な裁判批判があります。作家・廣津和郎氏ら多くの文化人も加わった「松川事件救援運動」は大きく盛り上がりました。これに対して、最高裁判所長官・田中耕太郎氏は、「雑音」として非難しました。 

仙台高裁は、1961年、全員無罪の判決をしました。レールをはずす道具として提出されていた「自在スパナ」の証拠が、警察・検察による捏造だったことが判明しました。
しかし、検察側はこの判決を上告し、最高裁で無罪が確定したのは1963年です。事件発生から14年が経過していました。

この事件では、自白の強要、証拠の捏造、無罪の決め手となる重要な証拠隠しなどが続々明らかになりました。1審段階から被告人の無罪を証明する証拠を握りつぶすなど、裁判所の訴訟指揮や判断にも強い批判が集中しました。
起訴された人たちが無罪だとすると、真犯人は他にいるはずです。深夜にうごめく異様な真犯人の集団を見たという唯一の目撃証人は、身の危険を感じて横浜まで逃げましたが、水死体で発見されました。

死者まで出す事件を起こして労働組合や政党を弾圧し、日本社会の民主化のうねりをストップさせた政治権力の責任はもちろん、警察・検察・裁判所の責任も不問に付されたままです。日本が民主主義国家である条件として、戦後の「謀略事件」の真相の歴史的な解明が、避けて通れない宿題として残されています。
(2007年2月26日)

松川事件 ―なぜ福島の国鉄・東芝がねらわれたか―

伊部正之(福島大学教授)

 松川事件は、1949年8月17日の未明に、国鉄東北本線の金谷川〜松川間(現在の福島市南部)で発生した、線路破壊(レールの取り外し)による旅客列車の脱線転覆と機関車乗務員3人の致死事件である。その犯人として国鉄・東芝の労働者20人が逮捕・起訴され、1審では死刑5人、2審でも死刑4人の重大判決が下された。これに対して、被告の救援と公正裁判を求める大衆運動(松川運動)の発展が世論と裁判を動かし、5審・14年の長期裁判の末に、被告全員が無罪となった。松川事件については、その後の国家賠償裁判において、捜査・逮捕・起訴・裁判の継続のすべてが国家機関による違法行為であったことが認定された。つまり、松川事件はまれに見る冤罪裁判事件であり、権力犯罪事件であった。したがって、冤罪裁判の元になった線路破壊・列車転覆そのものも、謀略事件であった可能性が極めて高い。それ故に真犯人は、いまだに隠されたままになっている。

 ところで、国鉄の線路上では、すでに7月5日に下山事件(下山貞則国鉄総裁が行方不明となり、翌未明に常磐線綾瀬駅近くで轢断死体で発見)が発生し、同じく7月15日夜には三鷹事件(中央線三鷹駅構内の車庫から無人電車が暴走し、市民6人が死亡)が発生していた。そして8月17日の松川事件の発生である。このため、これら3つの事件は、しばしば国鉄3大事件とも呼ばれた。

 当時の国鉄は、6月1日に施行された日本国有鉄道法(国鉄法)によって公共企業体に移行していた。また、同時に施行された行政機関職員定員法(定員法)が国鉄にも適用されて、10万人の人員整理(行政整理)の実施が指示された。これに対して、産別会議傘下の国鉄労組(国労)や共産党が激しく反対していた。国鉄争議の行方は、行政整理全体を左右する位置にあった。果たせるかな、その第1次の解雇者名簿が発表された翌日に下山事件が発生し、第2次名簿が発表された直後に三鷹事件が発生した。このため、2つの事件と首切り問題が結びつけられて国労・共産党犯行説が流布され、解雇反対闘争は足元をすくわれて、7月中には事実上のケリがついた。

 この時期にはまた、民間企業でも首切り合理化の嵐が吹き荒れており、それに抵抗する民間労組の先頭には東芝労連がいた。この東芝争議では、引き続き東芝本社に残す予定の「残存工場」での首切り問題が最終段階を迎えていた。会社側は下山事件に合わせて解雇者名簿を発表し、三鷹事件に合わせて解雇手続きを断行した。こうして、争議の焦点はいわゆる「処分工場」の処理に移っていく。

 そして三鷹事件の後、巷では「第2、第3の三鷹事件が起こる」という噂が流れ、そうした異様な雰囲気の中で、8月17日に松川事件が発生した。しかも今度は乗客が乗った有人列車の転覆事件である。政府首脳、福島の警察・検察当局、マスコミは、あげて国労・共産党犯行説を吹聴して世論に決定的な先入見を与えた。こうして国労福島支部関係10人、東芝松川工場労組関係10人が犯人として逮捕・起訴された。国労福島支部は、2次にわたる解雇の実施にもかかわらず左派系の執行部が健在であり、意気高く活動を続けていた。また、東芝労連に属する松川工場労組は、工場切り離し(関連会社化)と1割首切りの返上を目指して、この17日に24時間ストを構えていた。この2つの戦闘的な組合を同時に狙い打ったのが松川事件であり、松川事件がなぜ福島で発生したかを解くカギはここにある。

 福島は東北・北海道に通じる交通の要衝であっただけではなく、首都圏の復興に不可欠な電力や石炭の供給拠点でもあった。そこには東北随一と目される共産党組織と、その影響下の労働運動が活発に活動していた。これを重視する占領軍と警察当局もまた、その軍事・警察力を福島に重点的に配備していた。その中で発生した松川事件は、単なる地方的な事件ではあり得ず、日本の戦後史の方向を転換させる世紀の謀略事件であった。その背後には、中国を含む極東情勢の激変、日本国内の政治・経済・社会の混迷の深まりがあり、アメリカの対日占領政策は、民主化の推進から軍事優先へと大きく右旋回していた。

 さて、福島大学が市内から移転した新キャンパスは、金谷川駅の東側に隣接し、松川事件の現場からは2キロほどの至近距離にある。こうした立地条件とも重なって、1984年6月から松川事件関係の資料収集事業が開始され、88年10月には学内に「松川資料室」が開設された。資料室には約10万点の資料が収集・整備され、一般に公開されている。事件現場と資料室をめぐる見学者が毎年相当数を数え、研究や著作を目的とした利用者も着実に増えつつある。そして、この資料室の整備や来訪者への対応を主として担ってきたのが筆者である。この間の筆者のささやかな研究成果としては、(1)『松川事件五〇年』(共著、1999年)、(2)『松川事件と平事件のナゾ』(2001年)、(3)『戦後謀略事件の背景と下山・三鷹・松川事件』(2006年)などがある。ただし、(1)は絶版(出版社が倒産)、(2)は品切れであり、(3)は真犯人問題にも言及していて、新たな興味関心をもって迎えられている。また、1989年に福島県松川運動記念会が結成され、各種の活動のほか、(3)の発行元にもなっている。
(2007・2・20)