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福島(2)

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鈴木安蔵
Y.M.記

 日本の憲法史に燦然とその名を残す鈴木安蔵は、1904年に福島県相馬郡小高町(現在の南相馬市)に生まれ、中学卒業までをそこで過ごしました。在籍した相馬中学校では弁論部で活躍し、また、当時まだまかり通っていた上級生による理不尽な暴力に反発し率先して抗議活動を行うなど、後の鈴木憲法学の礎が偲ばれるような数々の逸話を残しています。相馬中学卒業後は仙台の第二高等学校に進学しここでも弁論部に入部、それと同時にこの頃から、貧困・飢餓・失業などの社会矛盾に疑問を抱き、次第に労働運動や社会主義運動などの社会問題に関心をもつようになっていきました。

 1924年、鈴木は、京都帝国大学文学部哲学科に入学します。入学後すぐに鈴木は、「京都帝国大学社会科学研究会」(京大社研)に入会、マルクス主義の研究に傾倒していくようになります。そして翌年、学部も経済学部へと転部し、人民解放の視点に立ってより一層マルクス主義の研究や社会活動に取り組んでいきました。

 しかし、そんな矢先、このような日々に邁進する鈴木をある事件が襲います。それが1926年の「京都府学連事件」です。この事件は、マルクス主義の研究・普及活動や労働運動を行う全国的な学生組織であった「日本学生社会科学連合会」(学連)のメンバーが、1925年に制定された、かの悪名高き治安維持法2条(国体の変革や私有財産制度の否認を目的とした結社の禁止)違反で逮捕・起訴された事件です。この事件によって、京都府警察部の特高からかねてよりマークされていた京大社研の中心人物であった鈴木も、逮捕・起訴されます。ちなみに、この事件は、治安維持法が適用された初めてのケースでした。
 鈴木は、この事件で最終的に有罪判決を受け、約2年間服役することになります。そして、同時に京都帝国大学も自ら退学してしまうのです。けれども、このときの体験が、鈴木に国家とはなにかということを考えさせる契機となり、それまでは関心をもつこともなかった憲法と政治学という分野に鈴木を進ませることになったのでした。

 とはいうものの、折しも軍部が台頭し日本が戦争へと突き進み始めた暗い時代の幕開けにあって、在野での研究を開始した鈴木の生活環境は大変厳しいものだったようです。しかし、そんな中にあっても、鈴木は節を曲げることなく清貧を貫き通しました。その当時の鈴木を物語るエピソードとして、マルクス主義の転向者を集めた官立研究機関の研究員に月給60円という高給で誘われたところ、即座にそれを断ったという話があります。逆境にも屈せず、鈴木は、精力的に憲法に関する著書や論文を次々と発表していきました。

 1945年、日本が敗戦を迎えると、鈴木は、高野岩三郎が会長となって発足した民間の研究会である「憲法研究会」に、高野の強い要請により参加することになります。そこで鈴木は、研究会による数度の会合を経て、自身が中心となり「憲法草案要綱」をまとめあげました。「憲法草案要綱」は、1945年の暮れにときの幣原内閣とGHQに手渡され、同時に新聞各紙でもその内容が報道されました。
 ここで注目しておかなければならないのは、鈴木を中心として起草されたこの「憲法研究会」の「憲法草案要綱」が、GHQによってかなり重視され、後にGHQが起草し日本国憲法の原型となった「マッカーサー草案」に大きな影響を与えていたという事実です。よく改憲の必要性の論拠として、現在の日本国憲法がGHQからの「押しつけ憲法」だということがしばしば主張されてきましたが、しかし必ずしもこれが当を得ていないのは以上のような事実が示しているところです。まさに鈴木は、「日本国憲法の間接的起草者」(金子勝「日本国憲法と鈴木安蔵先生(特別企画・鈴木安蔵先生生誕100周年記念)」『法と民主主義』2005年4月号、40頁)だったといっても過言ではないでしょう。

 日本国憲法が制定された後、長らく在野にあった鈴木は、静岡大学、愛知大学、立正大学で教鞭をとることになります。学界では、現在も若手研究者を中心に積極的な研究活動を行っている「憲法理論研究会」を組織し(1964年)、また、社会的にも、「日本民主法律家協会憲法委員会」の委員長に選出されたり(1962年)、「憲法改悪阻止各会連絡会議」の結成に参加し初代代表委員に選出されたり(1965年)と、護憲運動の最前線に立って活躍されました。そして、1983年、鈴木は、明治憲法により翻弄され日本国憲法の誕生と擁護に奔走した79年の激動の生涯を閉じました。憲法の危機が叫ばれる中、現在の憲法研究者が鈴木の研究姿勢に学ぶべき点は今なお多くあるといえそうです。

 なお、鈴木安蔵を主人公とした映画「日本の青空」が2007年春から全国で上映されています。

<寄稿(1)>

鈴木安蔵先生との「再会」

吉原 泰助(福島県九条の会呼びかけ人代表・福島大学名誉教授・元同学長)

 学生時代法学部 (政治学)に籍を置いていたことがある。その頃、鈴木安蔵先生の『政治学原論』を始め、先生の憲法学関係の著作に出合った。当時の私の感想は、生意気にも、わが国の政治学あるいは憲法学を社会科学の高みに引き上げたのは、鈴木安蔵先生ではないかというものであった。その後、経済学部に学士入学し ―講演などでは、経済学部に移った点だけは鈴木先生と同じだというと笑われるのだが― 、大学院をへて経済理論・経済学史を専攻するようになった。そのため、久しく、鈴木先生のお仕事にはご無沙汰していた。

 退官後、福島県で九条の会を立ち上げた直後、大学以来の親しい友人・小和田恒国際司法裁判所判事(元国連大使)が、父君の初任地相馬を是非一度訪ねてみたいというので、相馬高校で講演会を企画して頂き、案内した。その折、校長先生から、大部の 『相馬中学=相馬高校百年史』を頂戴した。そこに、安蔵少年が福島県第一回中等学校弁論大会で優勝した演説 「心の声」の全文が掲載されていた。ギリシア哲学から第一次世界大戦まで滔々と説き及ぶ論調は、壮大にして流麗そのものであった。独身の国漢教師であった小和田君のお父さんも、その頃、安蔵少年を教えた筈である。

 そんなことで、二三年前、模糊としていた福島県浜通り出身という先生の出自が、正確かつ強烈に脳裏に刻み込まれるに至った。この活字の上での久しぶりのめぐり合いをきっかけに、鈴木先生の足跡を辿り直した。以来、県内は勿論、県外の講演でも、《日本国憲法の日本側の本籍は福島県 (小高)であり、鈴木 『憲法草案要綱』こそ日本国憲法の下敷きである》、と説いて廻っている。

 県内では、そんな偉い学者が福島県出身だったのか、と比較的素直に受け人れられた。しかし、一旦、県外に出ると、当初は、お国自慢めいた話と訝しげに受け止める向きもないではなかった。しかし、今では、憲法擁護運動の深まり・広がりとともに、とくに映画『日本の青空』の成功もあって、鈴木先生が日本国憲法の 「間接的起草者」であることは、運動のなかに常識として定着しつつある。それとともに、「押しつけ憲法」というデマゴギ一の神通力も色褪せたものとなって来た。

 昔一度、静岡におられた鈴木先生を学生たちが福島大学に講演にお招きしたことがあるという。迂闊にも、その時、私は気付かず、お目に掛かるチャンスを逸した。したがって、これまで、直接、先生の謦咳に接することはなかったが、九条の会の活動の中で、先生の功績を辿ったり、小高のご実家をお訪ねしたりするにつけ、若き日に傾倒・私淑した鈴木安蔵先生に、半世紀の時を隔てて 「再会」できたかのような心境になる。

【参考】吉原 『九条を護るとはどういうことか―日本国憲法のふるさと小高にて―』(講演録),小高九条の会,2006,2,5;吉原/斉藤佳倍 「憲法を考える」 (対談) 『甲斐ケ嶺』74号,2007,2;同 「再び憲法九条を考える― 安全保障と国際貢献を中心に―」同誌 77号,2007,11〔『甲斐ケ嶺』=甲府市 「甲斐ケ嶺出版」発行の地元総合誌〕。


<寄稿(2)>

「そんなのかんけーねー」が存在しなかった時代と安蔵とおっぱっぴーな私

大町綾子(映画「日本の青空」監督助手)


映画『日本の青空』

 映画の仕事は所属する部署にもよりますが、すごくハードで休みってはっきりいってない!労働基準法を違反しまくっております。はっきりいってオススメはできませぬ。でもなんで続けてしまうかって言うと、作品をより良きものに作り上げるために台本に沿った物を一から調べ、それを私たちなりの世界観に結びつけ、具体化していく、そのできあがった瞬間はどんな仕事にもないぐらいすてきな部分で、またなんともいえない感動を感じるんです。

 私が携わった映画、「日本の青空」は明治から昭和初期の時代物で憲法、政治、etc…と多くのものを絡めています。勉強とは相性の悪い過去をもつ私にとってかなりの初期段階な歴史のお勉強からスタートしたわけですが、いやー実はこんなことがあったんだーなんて思って面白かった。遅すぎですがやっと人並みになりました!感がありました。

 今回は鈴木安蔵の生活、安蔵と憲法と政治をどのように表現していくかが難しく、ただの歴史ドキュメンタリーで終わるなら、「その時歴史は動いた」を見てくださいよ!で済んでしまうので要注意!でも安蔵のお子さんたちからたくさんのお話を聞いたり、資料や写真を見せていただいたり、住んでいた家の図面まで書いてくださってかなりハイレベルな安蔵像ができあがったと思います。お子さん達が映画のセットに見学されてた時「この火鉢、同じの使ってた!」なんて(これはただの偶然でしたが)こともあり、大満足されててすごくうれしかった。

 この映画を見てみなさんそれぞれに考えや感じていることがあるとは思います。私的にいくつか述べると、主役・鈴木安蔵は憲法おたくという印象が強く(まあ研究者=おたくなんですがね。。。ある意味秋葉系?憲法にモエーしてつうことですよね?)、でも研究もいいけど、継続こそ力なり!だけど、だからって毎日収入がない!お金にならない!ってなったら、私だったら速攻で離婚ですよ!でも妻の俊子台詞でもありますが、女が我慢しなきゃいけない時代で。。。ありえねー的な時代だわ!と痛感しました。

 もう一つはそもそも民間人ってこの世にたぁーくさんいるのに、生活とか考えとか民間人にしかわからないの当たり前じゃん!って。まあそのために憲法研究会が発足して「自分たちの憲法をつくろーじゃないかぁー」って高野岩三郎の台詞。

 このあと、俊子も我慢した、安蔵の憲法おたくの成果が爆発!本もたくさん出してたかいがありました!GHQも認めてました!そりゃあ、民間がつくりゃあ民主的な憲法になるわ!?政治家続けまくってできあがる品物じゃぁーござーせんよー、「MASTUMOTO SAN…」(byラウエル)。

 最後に、この作品は第九条を守る!今の憲法を守る!という訴えを言うのがテーマですが、私も戦争だけは本当にNo Thank Youっす。でもすごく偏ってる感を感じてしまいます。
 時代は流れてるのはみなさまわかってますよね??だからこそ戦後に新しい憲法ができたわけですが、その気持ちを忘れてはいないでしょうか?どうも私からみると(というか私も見ている世界が狭いのかも)憲法を守るって、戦争だけ?他には?的な部分がたくさんあるように感じらるのです。どうも「昔はあーだったのに、今はだめだー」的に言われて終わってる気がするけど、そこを改善するべきじゃないんですかね??今も昔も受け入れてピースに考えて行けるようなソフト感は生まれていかないのでしょうかね?