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茨城

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百里基地訴訟
Y.M 記

 茨城県小美玉市に広大に広がる航空自衛隊百里基地。霞ヶ浦の北側に位置し、F15戦闘機を擁する第7航空団と、偵察航空隊と呼ばれる第501航空隊が配備されています。また、1990年からは日米共同使用基地とされ、鹿島灘沖で行われる日米共同訓練の拠点ともなっています。
 百里基地は1956年に建設の計画がもちあがり1966年に完成しましたが、この間、旧防衛庁による基地建設のための用地買収に対して、地元農民を中心とする激しい基地反対運動が巻き起こりました。そうした過程の中で起きたのが、百里基地訴訟です。

 この事件は、基地建設のための用地買収に伴う土地所有権をめぐる争いとして発生したものです。地主であるXは、基地建設予定地内に土地を所有していましたが、この土地を基地建設反対派のYに売却することにして、Yとの間に土地の売買契約を結びました。しかしながら、YがXに支払うことになっていた土地代の残金の支払時期をめぐって争いが生じ、Xは残金未払いを理由にYとの売買契約を解除します。そして、Xは、基地用地買収を進めていた旧防衛庁にこの土地を売却することにし、旧防衛庁との間に新たな売買契約を結びました。同時に、Xと旧防衛庁は、Yに対して、Y名義になっていたこの土地の登記抹消と、この土地に対する国側の所有権確認を求める訴訟を起こしたのです。一方、Yもまた、この土地に対する自らの所有権確認を求める反訴を提起しました。その中で、Yは、自衛隊の違憲性を主張、違憲の存在である自衛隊基地建設のためになされたXと旧防衛庁の売買契約は憲法9条に反して無効であると訴えたのです。

 1977年2月17日、1審の水戸地裁判決は、「統治行為論」を援用して自衛隊の違憲性に関する判断を避け、Xと旧防衛庁の請求を認めてYの訴えを棄却しました。1981年7月7日の2審東京高裁判決は、「統治行為論」を援用することはありませんでしたが、本件で問題となった売買契約のような国の私法上の行為については憲法の適用は及ばないとして、やはりYの訴えを棄却しました。つまり、憲法98条1項では、憲法に反する公権力の行使は無効となることが定められていますが、しかし国が行う私法上の行為は公権力の行使にはあたらないので、そもそも本件において憲法が問題となる余地はないとしたわけです。そして、1989年6月20日、最高裁も、東京高裁判決とほぼ同じ立場に立ち、原則として「国が行政の主体としてでなく私人と対等の立場に立って、私人との間で個々的に締結する私法上の契約は、・・・憲法9条の直接適用を受け」るものではないとして、Yの上告を棄却したのでした。

 百里基地訴訟を通じて共通してみられるのは、あまりにも国側に好意的な裁判所の姿勢です。とりわけ、2審の東京高裁と最高裁は、憲法98条1項にいう「国務に関するその他の行為」を杓子定規に捉え過ぎており、このことは憲法の規範力を弱めてしまうことにもつながりかねません。むしろ、ここで問題とされなければならなかったのは、国の行為が公法的なものか私法的なものかという形式面ではなく、本件の売買契約がはっきりと自衛隊基地建設を目的とした国の行為であったという実質面ではなかったのでしょうか。憲法9条が問題となる裁判では、裁判所による安易な任務放棄を監視すること、そして問題の本質を絶えず見失わないよう注意していく必要があるように思われます。

<寄稿>憲法九条の花が咲き誇る百里基地

松原日出夫(茨城県平和委員会代表理事)

 茨城県の百里原には太平洋戦争中海軍の航空隊があった。戦争が終わると開拓地として解放され、約150戸の開拓者が入植したが、営農と生活はきびしく、先行きの展望がもてない人たちが多かった。そこに目をつけた幡谷仙三郎小川町長が、1955年、自衛隊基地誘致運動を始めた。これを受けて防衛庁は航空自衛隊の戦闘機基地の設置を計画した。農業経営の展望が持てない開拓農民の中には、これを機会に土地の接収に応じる者も少なくなかった。が、50戸の開拓農家は「百里原基地反対期成同盟」を結成して反対運動に立ち上がった。これに呼応して基地設置反対の住民運動も全町にひろがり「小川町愛町同志会」が結成され、リコール運動で幡谷町長を辞職に追い込み、基地反対の山西きよし町長を誕生させた。

 その後、こうした反対運動の高揚に危機感をもった防衛庁と地元の基地誘致勢力の激しい巻き返しが展開されて、山西町長は僅か2年で町長の座を追われる。百里原の現地でも反対同盟員に対する防衛庁の執拗な切り崩しがすすめられ、9年後の1964年には滑走路の建設が可能となり、基地反対同盟は解散に追い込まれた。

 しかし、反対運動には終止符はうたれなかった。若い反対同盟員たちによってただちに反対同盟が再建された。その反対同盟員たちが基地内に所有する民有地は15万平方メートルにもおよんでいる。その一部は基地の中心部に位置して、基地の滑走路と平行してつくる計画の誘導路を、その中心部で滑走路側に大きく「く」の字形に曲げさせている。この基地のど真ん中の民有地に、百里稲荷神社が祀ってあり、毎年、2月11日に開催されている「百里初午まつり」には、数百人が集まって平和を守る誓いを新たにしている。

 1978年、百里裁判が控訴審(東京高裁)に移るのを契機に2つの支援組織の一本化がすすみ「百里基地反対連絡協議会」が結成された。この組織は、百里基地反対同盟、百里弁護団、農民運動茨城県連、茨城県平和委員会、茨城平和擁護県民会議、共産党茨城県委員会、社民党茨城県連合の7団体で構成され、百里裁判の運動、百里平和公園の造成、「初午まつり」の後援などに取り組んできている。

 このように、基地設置が計画されてから半世紀以上経た百里原で、自衛隊はF15戦闘機を飛ばしているが、基地は、反対運動の成果によって依然として未完成であり、憲法九条の花が咲き誇っている。

百里基地反対運動のページ】