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栃木(2)

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田中正造
Y.M.記

 田中正造は、1841年、現在の栃木県佐野市に生まれました。若い頃から反骨精神旺盛な人物だったようで、まだ若年の名主であった幕末期には、村人と共に領主の圧政に反対し更迭を要求して投獄されたが成功します。また明治維新後も、下級官吏として赴任した秋田において発生した殺人事件の濡れ衣を着せられ投獄されます。しかし厳しい拷問にも屈服することなく、獄中で「西国立志篇」を熟読、最終的には無罪が判明し、出獄しました。
 田中は、釈放後は故郷に戻り、地租改正担当人をつとめ、ついで自由民権運動にも参加しました。そして、現在の「下野新聞」の前身である「栃木新聞」を1878年に再刊しその編集長となり、同紙上で民権思想や国会の開設などを訴え、その普及に力を注いでいきます。
 同時にこの頃、田中は、議員としての政治活動も活発に行うようになります。区会議員としての活動に始まり、1880年に栃木県議会議員に当選。当時の栃木県令(現在の知事)三島通庸の民権運動抑圧の暴政に反対し、排斥運動を起こします。そのため、三島暗殺計画(加波山事件)の関係者にでっち上げられ逮捕されてしまいます(後に三島の転出に伴い釈放)。その後、1889年に公布された大日本帝国憲法の下で国会が開設されると、その翌年開かれた第1回衆議院選挙に出馬して当選、以後国会議員として様々な分野で積極的な政治活動を行い「トッチン(栃木県鎮台)田正(たなしょう)」の異名で名物代議士になります。その頃、古河市兵衛が足尾銅山の開発に力を注ぎました。

 明治維新後の日本は、それまでの封建制から脱却し、西欧列強諸国に追いつけ追い越せとばかりに富国強兵策を採っていたわけですが、その際に外貨獲得の手段として目をつけたのが銅の生産であり、当時銅の国内産出量のトップを占めていたのが足尾銅山でした。けれども、足尾銅山から流出する鉱毒が、渡良瀬川を通じてその周辺地域の魚類や農作物などにもたらす鉱毒被害が激化していきます。
 田中は、1891年から国会でこの問題について政府に再三質問を繰り返しましたが、それにもかかわらず、古河と癒着していた陸奥宗光(農商務相)はじめ政府は積極的な対策を講じようとはしませんでした。この間、田中は、鉱毒によって被害を受けた農民たちと共に足尾銅山の鉱業停止運動を展開します。そして、農民たちの大挙請願(大押し出し)を繰り返す反対運動に対する国の弾圧(川俣事件)などに怒った田中は、国会で「民を殺すは國家を殺すなり。法を蔑にするは國家を蔑にするなり」という有名ないわゆる「亡国演説」を行った翌年の1901年に国会議員の職を辞職、石川半山、幸徳秋水と謀り、同年の暮れ、鉱毒問題の窮状を訴えるべく明治天皇に対して直訴を敢行します。そのため世論は沸騰しました。

 しかし、これを契機として足尾銅山鉱毒問題は世間の注目を浴びるところとなり、また政府としても、足尾銅山での反対運動が日本全国の鉱山などに飛び火することを恐れ、1902年に、1897年に次ぐ第2次鉱毒調査委員会を設置しました。これにより政府は、鉱毒問題の終息化をはかると共に、翌1903年には同委員会に報告書を出させ、むしろ今後は鉱毒が洪水によって広がらないよう渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の遊水池を作るべきだとして、鉱毒問題を治水問題へとすり替える方針に出ます。政府は、この遊水池の建設先として谷中村を選び、1906年村議会の反対を押し切って、藤岡町に合併し1907年には谷中村の残留民家の強制破壊をしました。
 田中は、谷中村に移住して、政府による土地の強制買収さらに河川改修工事による環境破壊にも徹底的な抵抗を行いますが、そのさなかの1913年9月4日、志半ばにしてその波乱の生涯を終えました。

 こうした田中の一連の活動において注目すべきなのは、田中が、憲法を基礎にして人民の権利を擁護するという立場を一貫してとり続けたことです。周知のように、当時の大日本帝国憲法は、天皇の絶対的な権力を基礎づけることにその主眼がおかれ、国民の権利・自由の保障については極めて弱いという決定的な弱点を抱えていました。しかし、田中は、そのような憲法上に内在する制約をものともせずに、むしろそれを最大限徹底的に活用していったのです。歴史学の泰斗である故家永三郎教授がいみじくも指摘されていたように、まさに「正造は大日本帝国憲法を、国民の権利を守るための武器として逆用した人物」だったのです。ここに田中正造という人物の、時代を超越し透徹した先見の明を看取することができるように思います。
 また、田中は、生前著していた日記や手紙の中で、戦争の否定や世界的な軍備撤廃の必要性、植民地主義への懐疑、基本的人権は法律に優越すること、そして地方自治の重要性などを繰り返し説いています。これらも現在の日本国憲法の理念を先取りしたかのような、極めて注目すべき視点であるといえるでしょう。
 なお、田中の死後に残されたわずかな遺品の中には、大日本帝国憲法が含まれていたといいます。これも最後まで憲政に忠実たらんとした田中の人生を象徴している事実のように思われます(当HP「今週の一言」田中正造の生涯を追った映画「『赤貧洗うがごとき』〜田中正造と野に叫ぶ人々〜」を監督した池田博穂さんのコメントがあります。また、後半でご紹介した田中正造の人権・平和思想を、資料を用いて解説しているものとしては、「佐野が生んだ偉人 田中正造 その行動と思想」があります。併せてご参照下さい)。

<寄稿>田中正造と憲法

布川了(鉱毒事件・田中正造記念館名誉館長)

 まず、正造の憲法観について、誤解をされないよう、御願いしたいことがあります。
 第一は、帝国憲法発布にあたり、大欣びしたという誤謬。憲法発布の式典に、県会議長として参列した感激を次ぎのように詠み、同志に贈ったとあるからです(出どころは『義人全集』)。

  あゝ嬉し、あゝありがたし 大君は
     かぎりなき宝 民に賜ひぬ
  憲法は 帝国無二の 国宝ぞ
     守れよ まもれ 万代までも
  憲法に違(たが)ふ奴等は 不忠不義
     乱臣賊子なりと 知れ人

 ところが、これは編者栗原彦三郎の偽作でした。正造本人は、伊藤博文の1時間余に及ぶ「憲法講話」に参加した後、大隈重信宛の書簡中に、「聴衆過半は信じたるものの如し。其是非の如きは今日は不申上候。又容易に云ふべきものにあらざるを以って」と批判的に書いています。


田中正造とそのカルタ

 第二は、晩年、政治・憲法を捨てて谷中に入ったとする(林竹二『田中正造の生涯』)説です。「彼は弊履をすてるように議会をすてた。」(124ページ)とあり、小松裕は、林は「政治から宗教へ、憲法からキリスト教へ、という一大変化が見られると評価しているのである」(『田中正造の近代』541ページ)とみています。そして、木下尚江は『田中正造の生涯』で、遺品の中にある『帝国憲法』を無視しています。

 こうしたことから、はじめは憲法を過大評価し、晩年は無視したのだという、事実とは全く逆の憲法観の持ち主と視てしまう危険なしとしません。だが、正造晩年の日記には、 
 「谷中、銅山との戦なり。官憲之に加わりて銅山を助く。人民、死を以って守る。憲法を守り、自治の権を守り、祖先を守る。死を以って守る」
 とあります。死を以って守るべきものとしているのです。もっとも、「日本憲法は日本的天則に出しなり。宇宙の天則より出でたるにはあらざるなり。」(1912年3月24日の日記)と、日本憲法の限界性を指摘し、宇宙の天則に基づく普遍的憲法の新造を主張しています。
 『田中正造翁余禄』には「帝国憲法」とマタイ伝の合本が在ったとあります。著者の島田宋三に確かめたとき、「田中さんは、聖書と憲法があれば、あとは要らないと言ってました」と答が返ってきました。
 
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