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静岡(2)

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ビキニ環礁沖被ばく事件
Y.M.記

 東京都江東区の夢の島公園内には「第五福竜丸展示館」があり、今では廃船となったその名の船が展示されています。もともと第五福竜丸は、静岡県の焼津港を母港とするマグロ漁船でした。しかし、今から54年前にアメリカが行った水爆実験によって、その名は広く世間に知られるようになります。

 1954年3月1日未明、アメリカは、北太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁において、キャッスル作戦と銘打ちブラボー実験という水爆実験を行いました。このとき使用されたブラボーという名の水爆は、その後に製造されたどの水爆よりも規模の大きい15メガトン級のもので、その威力は広島・長崎に投下された原爆の約1000倍にも及ぶものだったといいます。
 このとき、第五福竜丸は、爆心地となったビキニ環礁の東方約160kmの海上で操業していました。当時、乗組員たちは、アメリカがビキニ環礁で核実験を行っていることを知っており、第五福竜丸が操業していた海域もアメリカ軍が発表していた危険区域外に位置していました。
 ところが、乗組員たちがこの実験による爆発を目撃してからわずか数時間後には、第五福竜丸の甲板上に雨と共に白い灰が降り注いだのです。そして、その日の晩から乗組員の身体には、頭痛や吐き気、下痢などの異常が出始めます。3月14日に第五福竜丸は焼津港に帰港し、乗組員はそれぞれ病院において治療を受けましたが、そこで第五福竜丸の乗組員たちは、自分たちがアメリカの水爆実験によって被ばくしていたことを初めて知ることになるのです。

 その後第五福竜丸の乗組員たちは、順次退院していきますが以後長らく後遺症に苦しめられることになります。しかし、そうした中でついに死者が出ます。同年9月23日、第五福竜丸の無線長を務めていた久保山愛吉さんが、入院先の病院で水爆の放射能による病状の悪化によりこの世を去ったのです。「原水爆による被害者は、私を最後にして欲しい」。これが亡くなった久保山さんの最後の言葉だったといいます。

 このように、第五福竜丸の被ばくによって日本は、広島・長崎に加えて核兵器による3度目の被害を受けた被爆国となりました。しかしながら、第五福竜丸の被災についてアメリカに対する日本政府の対応は腰が引けたものであり、アメリカも最後までこの実験の違法性を認めようとはしませんでした。結局、1955年になって当時の鳩山内閣は、アメリカの法的責任は不問にして、その代わりに200万ドル(約7億2000万円で、乗組員ひとりあたり約200万円)の慰謝料を受け取るという政治決着によって幕引きをはかったのです。

 けれども、これに対して世論は黙っていませんでした。最初は東京の杉並区の主婦たちが始めた核廃絶の署名活動が全国に次々と伝播していき、ついには1955年8月6日、広島で第1回原水爆禁止大会が開かれるまでに至ったのです。その後、これを契機として各種の原水爆禁止運動団体が生まれ、現在まで反核に関する様々な取り組みが行われてきているところです。
 しかし、翻って現実に目を向けるとき、3度の被ばくの教訓は果たして活かされているといえるでしょうか。日本国憲法9条をもち非核三原則を国是として掲げているにもかかわらず、現職の政治家が核武装の必要性を肯定するような発言を繰り返しています。久保山愛吉さんの最後の言葉の意味を、今一度かみしめて考える必要があるように思われます。

<コメント>ビキニ事件を知っていますか   
       
大石又七(第五福竜丸元乗組員・ビキニ水爆実験被爆者)

 日本人でも、この事件の内容を知っている人がどれだけいるだろうか。おそらく90パーセントの人が知らないと思います。

 1946年から67年まで、アメリカ軍は太平洋マーシャル諸島のビキニとエニウエトク環礁で67回の原水爆実験を行い、20世紀最大の地球環境汚染を引き起こしています。
 中でも54年3月1日の広島型原爆のおよそ1000倍といわれる巨大な水爆実験は、あの広い太平洋や大気圏を強力な「死の灰」放射能で汚染しました。
 この汚染を世界中に知らせるきっかけを作ったのが、実験場から160キロ離れたところでマグロ漁をしていて被爆した私たち第五福竜丸です。ガンなど引き起こす27種類もの強力な「死の灰」放射能が、船上に雪のように降り積りました。その灰を持ち帰ったことから地球上の汚染が発覚し世界中が大騒ぎになったのです。その灰にはアメリカの最高軍事機密である水爆の構造まで含まれていました。被爆した船は福竜丸だけではありません。厚生省が認めただけでも856隻、およそ1000隻に及び2万人近くが被爆しています。

 太平洋に降り注いだ「死の灰」は大量の魚を汚染し、捨てられたマグロは半年間で457トン。刺身にして250万人分と言われています。大気圏に上がった放射能は何千、何万カウントの雨や雪を地球上に降らせました。東京には1万2000カウント、京都には何と8万6000カウントの雨が降っています。

 しかし、この大切な意味を持つ事件を、日米政府はわずか9ヶ月で国民や被害者の頭越しに補償もしないで政治決着を結んで、ふたをしてしまいました。その結果どうなったでしょう。核兵器は10数カ国に拡散し3万発の核弾頭となって人類を脅かしています。

 その後、福竜丸では半数の12人がガンなどを発病して亡くなりました。私もガンを発病し、最初の子どもは死産で奇形児という口惜しい思いもしています。核実験が及ぼした被害は計り知れません。核の脅威は世界中に広がり、翌年の1955年には原水爆禁止世界大会が開かれ、核絶滅を訴えたラッセル・アインシュタインの宣言。さらに部分的核実験禁止条約、大気圏内の核実験が禁止されるというようにつながったのです。

 この、ふたをされたビキニ事件には、驚くような政治の裏が潜んでいました。隠されていた、それらの資料が30年、40年たってアメリカ公文書館や日本の外交機密文書の中から浮かび上がってきました。

 国民の強力な核実験反対運動には、日米の影の仕掛け人たちが必死になって反対運動の矛先を変えています。また外務省が被害額を賠償させずに事件を忘れさせる方法をアメリカ大使に進言しています。そしてなおかつ、水面下でそれらを取引材料にして原子力技術と原子炉を要求し受け取っています。被爆当事者としては許せません。まるで人柱です。

 これらの資料を本にまとめ、どうしても皆さんに知ってもらおうと昨年「ビキニ事件の表と裏」として出版しました。
 被爆以後、15年間一切口をつぐんで隠れていましたが、核兵器の脅威は増すばかり、仲間たちは口惜しい思いを胸に秘めたまま、小さくなって死んでいくのを見送っているうちに、やはりこの悲劇は私たちだけのものではないと思うようになり、発言するようになりました。

 世界の指導者のみなさん。もうそろそろ核兵器の怖さに気がついてください。それでないと、国もあなたの家族の命も失うことになると思います。