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愛知(2)

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中部電力過労自殺事件
Y.M.記

 非正規雇用の増加やそれに伴うワーキングプアなど雇用の不安定化が社会問題化する一方で、依然として、労働の現場におけるサービス残業などの無法な労働実態が、しばしば見受けられます。中でも、そうした過酷な労働状況で肉体的・精神的な疲労が蓄積してある日突然死に至る「過労死」が、そのまま“KAROSHI”として広く世界に通用する言葉になってしまったことはあまりにも有名な話です。
 最近では、過労死に加えて、過労によるストレスからうつ病を発症しそれが元で自殺に至る「過労自殺」の問題もクローズアップされるようになってきました。このような背景には、過労自殺に対する労災認定をめぐって全国各地でいくつかの訴訟が提起されていること、そしてそれらの中で労災認定を認める司法判断が相次いでいることがあるように思われます。
 ここで取り上げる中部電力過労自殺事件は、高裁レベルで過労自殺に対する労災認定が認められた全国で3つ目の事例であり、それが確定した画期的な事例でした。

 中部電力火力センターに勤めていたAさん。Aさんは、妻Xさんとの間に2人の子どをもうけ幸せな家庭を築いていました。ところが、1999年8月1日にAさんが同環境設備課の主任に昇格してから、Aさんを取り巻く環境は大きく変わっていきます。
 まず、質・内容共に増加した業務を遂行するために長時間労働しなければならなくなりました。例えば、主任昇格前の6月には時間外労働が約70時間であったものが、主任昇格後の10月には約124時間にまで増やさざるをえなくなったのです。また、上司からの度重なる陰湿ないじめまでもがこれに加わりました。それは、「主任失格」、「お前なんかいてもいなくても同じだ」などと公然と叱責するというものから、業務中は結婚指輪をはずさせるというプライベートなものにまで及んでいたのです。
 この過程でAさんはうつ病を発症します。そして、主任昇格からわずか3ヶ月後の11月8日、悲惨な結末が訪れます。この日、Aさんは自家用車の中で火を放ち、ついに自らの命を絶ったのでした。

 Aさんの死後遺された妻Xさんは、2000年10月29日、Aさんの自殺が業務に起因する過労であったとして、名古屋南労働基準監督署に対し、労働者災害補償保険法(労災保険法)に基づき遺族補償年金と葬祭料の支給を請求しました。ところが、2002年5月31日、同署は、「業務による心理的負荷が精神障害の有力な原因とはいえない。よって本件は業務上の事由による死亡とは認められず業務外として判断する」として、Xさんに対する不支給決定処分を行ったのです。これを不服としたXさんは、この後この処分の取り消しを求めて審査請求、再審査請求を行いましたが、いずれも棄却されました。
 そこで、2003年4月9日、Xさんは、闘いの場を司法に移し、同監督署を被告として上記の処分の取り消しを求める行政訴訟を名古屋地裁に提起したのです。

 2006年5月17日、第1審名古屋地裁は、Aさんのうつ病の発症及び増悪とAさんの自殺には「業務起因性」が認められるから同監督署の行った処分は違法であるとして、Xさんの請求を認める判断を行いました。
 これに対し被告である同監督署は控訴しますが、しかし2007年10月31日、第2審名古屋高裁も、第1審名古屋地裁の判断を全面的に支持して、Aさんの自殺が労災であったことを認める判断を行い、ここにXさんの勝訴が確定したのです。
 この中で、名古屋高裁は、上司がAさんに対して公然と叱りとばしたり結婚指輪をはずさせたりしたことが「いわゆるパワーハラスメントとも評価されるのであり、相当程度心理的負荷が強い出来事」であったとして、Aさんに対する上司のパワーハラスメントがあったことを認めました。また、自殺と業務の相当因果関係を判定するにあたっては、「相対的に適応能力、ストレス適処能力の低い者も含む」労働者を基準として、「業務に精神疾患を発症させる危険性が認められるか否かを判断すべき」であるとしています。そして、当時の労働省が策定した、業務上のストレスがうつ病などの精神障害や自殺に結びついたのかどうかを労働基準監督署が判断するための基準であるいわゆる「判断指針」についても、それが裁判所を拘束するものではなく、またその内容には批判があることを認め、「現在においては未だ必ずしも十全なものとは言い難い」として、名古屋地裁判決よりもさらに踏み込んだ画期的な判断を行ったのでした。

 日本国憲法27条1項が保障する「勤労の権利」は、25条の「生存権」を労働面でも保障したものとして捉えることができます。すなわち、私たちが働くのは、決して賃金のためだけではなく、人間としてふさわしい「健康で文化的な」人生を送るためのはずなのではないでしょうか。こうした憲法的な視座から、労働をめぐる諸問題についても今後ますます改めて考えていく必要がありそうです。