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三重(2)

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四日市ぜんそく訴訟
Y.M.記

 1950年中盤から1970年代初頭にかけて、日本は「高度経済成長」と呼ばれる時代に突入し、ようやく第2次世界大戦の敗戦による荒廃から立ち直り、華やかな経済発展と好景気に沸き返っていました。しかし、そうした経済繁栄の陰には、その推進力となった大企業の野放図な工業活動が引き起こした「公害」によって、多数の人々の尊い命が失われ健康が損なわれてきたという負の側面があったことも忘れてはなりません。
 1960年代になって三重県四日市市で発生するようになったいわゆる「四日市ぜんそく」も、そんな「公害」事件のひとつです。

 1959年、四日市市に日本初めての石油化学コンビナート施設が建設されました。しかしその操業開始後から、四日市市の住民の中には、激しいぜんそくの症状を発する人が出てくるようになります。その原因は、石油化学コンビナート施設から排出される有害物質を含んだばい煙による大気汚染にあったわけですが、そこに拠点をおくいずれの企業もその責任を認めようとはしませんでした。
 一方で、四日市市は、1965年から「四日市市公害関係医療審査会」を発足させ、市が「公害」によるぜんそく患者であると認定した人については、医療費を市で負担することにします。ところが他方で、四日市市は、新たな石油化学コンビナート施設の増設を推し進めるという矛盾に満ちた政策をとり続けていたのです。また、医療費は負担するとはいっても、生活や仕事に支障をきたしている人にその間の生活費まで保障されるわけではありませんでした。この間にも、被害者の数は拡大し続け、中には苦しさのあまり自ら命を絶つ人も複数出てくるようになります。
 こうした中、1967年9月1日、9名の被害者が原告となり、石油化学コンビナート施設を操業する企業6社を相手取って損害賠償請求訴訟を提起したのです。

 1972年7月24日、津地方裁判所四日市支部は、原告の請求を認容し、被告企業6社に計8800万円の支払いを命じる原告全面勝訴の判決を言い渡しました。同裁判所は、被告企業が排出しているばい煙と大気汚染、大気汚染とぜんそくの因果関係を認め、被告企業には共同不法行為が成立するとしました。また同時に、公害発生についての事前調査をなおざりにしたまま、経済発展を優先して被告企業に対し石油化学コンビナート施設の建設を誘致し奨励した国や三重県、そして四日市市の落ち度についても間接的に言及しています。
 この画期的な判決は、その後の日本の環境・公害政策にも大きな影響を与え、それが1973年のいわゆる「公害健康被害補償法」の制定にもつながっていくことになるのです。

 「四日市ぜんそく」を始めとする「公害」事件は、経済中心・利潤追求を第一としてそれにのみ邁進していくことが、翻ってなによりも重要なはずの人間の生命や健康をいかに危険にさらすことにつながるのか、という面をまさに明るみに出したといえます。しかしながら現在、この点は克服されたといえるでしょうか。「公害」の記憶を風化させることなく、常に個人の「生存権」の視点から国の経済政策や環境政策に目を向けていくことが、なお求められているように思われます。