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和歌山(2)

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玉野裁判
Y.M.記

 「参政権」は、私たちが主権者として自らの意志を国政に反映させるための重要な基本的人権です。とりわけ、選挙権は、代表民主制の下、私たちが選んだ代表を通じて政治に参加していくための基本的な権利といえます。
 もっとも、参政権の意義は、選挙での投票という行為に尽きるものではありません。参政権には、選挙に至るまでの過程を通じて、どの候補者が代表としてふさわしいのか否かを各人が自由に表明する、選挙運動の自由も含まれています。そして、そのような意味での参政権は、本来すべての人間に平等に保障されなければならないのです。
 けれども、実際には公職選挙法が、選挙運動についてかなり広範囲にわたる制限を課している実状があります。つまり、公職選挙法は、口頭での言論による選挙運動を基本としつつ、文書や図画による選挙運動についてはかなり厳しい制限を加えているのです。このことは、とりわけ言語に障害をもつ人にとっては、かなり酷なことといえるでしょう。この点が、言語障害者の視点に立ち真正面から初めて争われたのが、玉野事件です。

 和歌山県御坊市に住んでいた1922年生まれの玉野ふいさんは、貧しい家庭に生まれ育ち、家計の手伝いなどで小学校にも満足に通えないような生活を余儀なくされてきました。そのため、玉野さんは、漢字もほとんど読むことができませんでした。このことに加え、玉野さんには幼少の頃から顔に痣ができ、それが成長するにつれて痛みを伴う頬や唇の腫れに変わり、ついにはそれが元で玉野さんは言語障害の認定を受けます。後に手術を受けるも結果は失敗に終わり、玉野さんは、手術痕を隠すと共に手術の後遺症である顎の下垂を防ぐために、常時マスクを着用しなければならなくなりました。言語の障害に加えて、このマスクが玉野さんの意思伝達をより困難なものとしてしまったのです。
 そのような苦境の中で生活を送っていた玉野さんでしたが、ある日偶然、とある衆議院議員候補者の演説を耳にします。生きる希望すら失っていた玉野さんにとって、その候補者の話は「生きる希望が湧いてきた」ものだったといいます。玉野さんは、この候補者の話に共鳴してなんとか力になりたいと考え、1980年にこの候補者が総選挙に出馬する際に、この候補者の後援会加入申込書等45枚を近隣9軒に配布したのでした。
 ところが、この玉野さんの行為が、公職選挙法142条1項の禁じる法定外選挙運動用文書の頒布にあたるとされたのです。これにより、玉野さんは逮捕・起訴されることになります。これに対し、玉野さんの弁護側は、公職選挙法の規定は、憲法21条の表現の自由に違反し無効であるとして全面的に争ったのです。

 1986年2月24日、和歌山地裁御坊支部は、選挙の公正性確保と選挙運動規制に関する国会の裁量を理由として玉野さんの側の主張をいとも簡単に退け、罰金15000円、公民権停止2年の有罪判決を言い渡しました。
 これに対して玉野さんは控訴します。そして、弁護側は、言語障害をもつ人が文書配布を禁じられたら一切の選挙運動ができなくなるとの視点から、控訴趣意書に新たに「障害者と選挙」という項目を設け、改めてこの事件がもつ本質を争う姿勢に出たのでした。
 しかしながら、1991年7月12日、大阪高裁も、玉野さん側の主張を退ける判断を下します。それによれば、公職選挙法が認める選挙運動方法に照らすと、言語障害者が単独で街頭での個々面接や電話で投票依頼を行ったりすることは事実上不可能であるから、「選挙運動に関し言語障害者と健常者との間に実質的不平等が存することは否めない」。けれども、にもかかわらず言語障害者には、筆談による投票依頼や健常者と共に選挙運動を行う途も残されているのであって、逆に言語障害者にのみ自由に文書配布を認めるとすれば、それは健常者との間に均衡を欠くことになる。以上のように、裁判所は述べて、公職選挙法による本件規制は違憲ではないとしたのです。
 なお、玉野さんは最高裁に上告していましたが、1993年8月16日に志半ばにしてこの世を去っています。

 以上のような裁判所の判断には、かなり理解に苦しむ部分も少なくありません。例えば、言語障害者には筆談という手段が残されているといいますが、筆談では口頭に比べ時間もかかりまた語彙力や文章力なども要求されるでしょう。それがどれほど選挙運動の手段として有効かは、疑わしいといわざるをえません。しかも、先述したように、本件において玉野さんは、識字力の上でも不利な状況にありました。また、言語障害者は健常者と共に選挙運動することもできるとしていますが、そこでは個人としての言語障害者による意思表明という側面が、かなり軽視されているといえます。
 そして、なによりも問題としなければならないのは、ここで問われているのが、すでにハンディキャップを抱えている障害者に対して、公職選挙法は代替的な選挙運動の手段を用意することなく、結果的に彼らから選挙運動の自由を一切剥奪してしまっている、ということなのです。障害者のおかれた境遇に対する以上のような裁判所の鈍感さには、ただただ呆れるばかりです。こうした障害者によるまだまだ小さな声に対して、裁判所だけではなく私たちも真剣に向き合い耳を傾けることが、常に求められているといえます。

<寄稿>玉野裁判の事

上野正紀(和歌山県弁護士会・元玉野弁護団事務局長)

1、玉野ふいさんがなくなられて,既に15年近くの日々が過ぎようとしています。1993年8月16日、上告審のさなか、玉野さんはなくなられた。障がいを持つ人々の選挙運動の権利を正面から問う裁判でした。
2、表現の自由は言うまでもなく民主制度の根幹です。そして選挙は国政や地方政治を担う人々を選ぶ制度であり、二重の意味で民主制度の根幹です。しかし、選挙の根本法である公職選挙法は、「できない」法であり、よほど精通した人でないと、何ができて、なにができないのか、皆目わからないという代物です。その中で自由にできるものとして、「個々面接」といわれるもの(たまたまあった人に訴える事)、電話での投票依頼がありました。玉野さんは、政治には無関心だったのですが、偶々演説会に誘われ、候補者の話に引き込まれ、「あたかも自分に話しかけてくれている」ように感じ、この候補者をぜひとも国会へと思い立ったのです。しかし、玉野さんは重度の言語障がいを有していました。それでも、道で会う人に、訴えようとしたのです。でもやはり伝わりませんでした。公職選挙法で「自由」にできる行動が玉野さんには不可能だったのです。玉野さんは、ビラを配りました。それが公職選挙法違反として起訴されたのです。
3、玉野さんの裁判は、表現の自由が争点になった事は当然なのですが、同時に「平等」、憲法14条が大きな問題としてクローズアップしてきたのです。同じ人間、有権者でありながら、言語障がいがあることにより、「健常者」のできる事ができない、この事態の憲法的意味を問う事になるのです。そして更に、表現の自由の観点からも1歩進め、玉野さんに文書が認められなければ、玉野さんは一切の選挙運動ができなくなるが、これは明らかに行過ぎた規制とならないか、という視点です。
4、しかし、私たち弁護団は当初そのような重要な視点をもてませんでした。表現の自由のみを争点とし、且玉野さんの障がいに目をすえた論点の提示もできなかったのです。控訴審の段階となり、「守る会」の役員の一言「玉野さんはしゃべる事ができない、それを前面に出すべきではないのか」で、気づかされる事となりました。そこからは社会保障法の先生方の教えをこい、それまでにない論点の解明に当たる事となりました。
5、しかし、玉野さんの裁判が始まったのが「国連障害者の10年」の始まった年でもあり、「玉野さんは何もできなくなるがそれでいいのか」という事で、論点が極めてわかりやすいものとなり、弁護団の構成が増えるとともに、玉野さんの裁判を支援しようという運動も全国規模となっていったのです。個人加盟の守る会が全国に5、団体加盟の支援連絡会が3、という状況でした。地元和歌山では、専従職員を置くまでになったのです。
6、しかし、高裁判決は、障がい者に一定の配慮は示したものの、健常者と一緒にすれば選挙運動も可能である、という考え方で玉野さんの願いをしりぞけたのです。この判決当日支援者は、700名ほどの人々が裁判所に集まりました。
7、当然のこととして上告されました。さらに弁護団の構成は増え、支援の動きも大きくなっていきましたが、玉野さんの死去により玉野裁判は終結しました。しかし、玉野さんの投じた一石は、わが国の憲法裁判の歴史に燦然と輝いています。「古い」裁判ではありますが、このように権利のための戦いを実行した市井の婦人のいた事を長く記憶にとどめていただきたいと思います。(私たち玉野裁判にかかわった人々は玉野「裁判」と言います。それは、刑事事件ではあるが、その機会を捉えて、権利を実現していこうとの思いからです。)