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高知(2)

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中江兆民
Y.M.記

 明治維新によって幕藩体制が終わりを告げると、日本では民衆の代表からなる議会の開設や言論の自由の保障などを求める「自由民権運動」が巻き起こりました。その理論的な支柱となったのが、フランス革命に多大な影響を与えたルソーの思想を紹介し後に「東洋のルソー」と称された中江兆民です。

 1847年12月8日、兆民は、現在の高知県である土佐藩で藩の足軽の長男として生まれました。早くから学問を志し、10代の後半には藩の留学生として長崎でフランス語を学ぶなど後の礎を築きます。
 その後、兆民は、フランス語の通訳などを経て、1871年に明治政府が派遣した岩倉遣欧使節団に自ら名乗りを上げ留学生として参加します。そして、1874年に帰国するのですが、このときの3年間のフランス留学経験が、「東洋のルソー」中江兆民の言論活動の方向性を決定づけることになるのです。

 兆民の数ある業績の中でも特筆すべきなのが、ルソーが1762年に著し後の市民革命の牽引力となった『社会契約論』を部分的に翻訳した『民約論』(1882年)です。先述したように、これが後の自由民権運動を理論的に導くことになっていきます。兆民が「東洋のルソー」といわれる所以は、まさにここにあるのです。
 そして、兆民自身、あくまで「自由民権」の理念を貫き、国民不在の明治政府の政策を批判する言論を発し続けました。1887年には、それが原因で保安条例によって東京から追放されてしまいます。けれども、兆民はそれにくじけることなく、翌1888年に新天地・大阪で創刊した『東雲新聞』の主筆として活躍したのでした。

 また、兆民は、非武装・小国主義も論じました。「脱亜論」をはじめとする福沢諭吉や民権派の主張を含め基本的には東アジアの植民主義を押し進めようとする時代の風潮の中で、「隣国の内政に関与して兵を挙げるべきではない」と語っています(1882年『自由新聞』)。

 兆民はその後、1890年の第1回衆議院議員総選挙に大阪から出馬しトップ当選しますが、しかし翌年の1891年には、明治政府に妥協して政府予算案を通過させた国会内土佐派の裏切りに激怒し、ついには議員を辞職してしまいます。
 そして、議員辞職後はいくつかの事業活動を行うも成功には至らず、1901年12月13日、55歳でその生涯を閉じたのでした。

 兆民がこの世を去ってから100年以上の月日が流れました。けれども、「自由民権」を基調とする兆民が残した思考の軌跡はなお輝きを失ってはおらず、むしろ市民が意識しないまま「自由」の浸食が進行している傾向のある現代にあっては、より妥当性を帯びてきているように思われます。
 「自由は取る可きものなり 貰ふ可き品に非す」。兆民の言葉です。