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熊本(2)

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水俣病
Y.M.記

 1950年代に入ってから、熊本県の水俣湾周辺の漁村地域ではある異変が目立つようになっていきました。例えば、豊かな漁場で沢山の魚介類が水面に浮遊するようになり、その魚介類を食べたカラスが突然落下あるいは岩に激突して死んだり、また漁師の家で飼われている猫が起き上がることもできなくなったり、狂ったように走り回ってそのまま海に飛び込んで死んだりする事件が多発するようになったのです。
 そして、このような異変や症状は人間にもみられるようになっていきます。とりわけ、漁業を生業とし水俣湾海域の魚介類を日々口にしていた漁師の家族の中には、言語や平衡機能に障害をきたし、やがて死に至る人まで出てくるようになっていったのです。
 これが、戦後世界史上最大最悪の産業公害とまでいわれた「水俣病」の始まりでした。

 1956年5月1日。この日は、後に水俣病の発生源であることが明らかとなった新日本窒素肥料(現在のチッソ。以下チッソと表記)水俣工場付属病院の細川一院長が、水俣保健所に「原因不明の中枢神経疾患」の存在を報告した日であり、水俣病が公式に発見された日とされています。
 当初、水俣病の正確な原因は不明であったものの、早い段階からその関連性が疑われていたのが、チッソがアセトアルデヒド生産のために使用し水俣湾に排出し続けていた工場廃水でした。1959年7月、この問題について精力的に原因究明活動を続けていた熊本大学医学部の研究班は、当時奇病とされていた水俣病の原因がチッソの工場廃水に含まれる有機水銀であることをついに突き止めます。
 ところが、チッソは、先の細川院長が独自に行った内部調査で工場廃水が水俣病の発症原因であることを確認していたにもかかわらず(ネコ400号実験)これを隠蔽したばかりか、工場廃水には有機水銀は含まれておらずそれと水俣病との間には因果関係はないとする見解を、日本化学工業協会や当時の通産省までも巻き込んで展開していきました。
 また他方で、チッソは、1959年12月、水俣病の発生源であることはあくまでも認めず、水俣病患者や遺族から構成される患者家庭互助会との間に少額の見舞金契約を結んで事態の終結をはかろうとします。しかも、この見舞金契約には、今後水俣病の原因がチッソにあると判明しても、被害者家族は補償金の値上げは一切行わないとする条件まで盛り込まれていたのです。そして、この間にも水俣病の被害や感染地域は広がりをみせ続ける一方、それに対する国や自治体による抜本的な対策はなんらとられることはありませんでした。

 結局、厚生省がチッソの工場廃水と水俣病の因果関係を認め公害認定を行ったのは、実に1968年9月になってからのことでした。そして、翌1969年6月、ついに水俣病患者と家族112名が、チッソに対して損害賠償を求める第1次訴訟を熊本地裁に起こしたのです。
1973年3月、熊本地裁は、工場廃水の排出にあたりチッソには地域住民の生命や健康に対する危険を未然に防止すべき高度の注意義務があったとしてチッソ側の責任を認め、原告勝訴の判決を言い渡しました。これにより、水俣病患者の各団体とチッソとの間に補償協定が締結され、1600万円から1800万円の慰謝料の他に、治療費、介護費などの支払いが約束され、チッソは、更なる患者の発見に努めることをも誓いました。さらに、この補償協定は、その後に水俣病患者として認定された者に対しても適用されることとなり、ようやくここに水俣病患者救済への途が開かれることとなったのです。
この補償協定により、これまで差別を恐れて名乗りを上げることができなかった多くの水俣病患者が救済を求めて認定申請を行いました。ところが、その申請者数はチッソが当初予想していた数を遙かに超えるものであったため、多くの患者に対して補償金を支払い続けると、チッソ自身が経営破綻するような状況になりました。逆に言えば、チッソはそれほど巨大な被害を水俣市とその周辺地域に与えていたのです。
ところが、国は、1977年に、水俣病にみられる様々な症状のうち、少なくとも2つ以上の症状がなければ水俣病ではない、という通達を出し(いわゆる昭和52年判断条件)、水俣病の認定基準を厳格化しました。これにより、それまで保留されていた多くの認定申請患者を、「水俣病ではない」として大量に切り捨てていく政策をとったのです。
このため、結局、多くの水俣病患者らが何ら救済もされない状況が放置されることになり、患者らは、国を相手に裁判することを余儀なくされました。
そして、1987年3月、チッソの責任だけではなく、水俣病の発生拡大を放置した国・熊本県の責任が争われた国家賠償請求訴訟である第3次訴訟においても、熊本地裁は、被害の拡大を防止しなかった行政の怠慢を断罪し、国・熊本県の損害賠償責任を認めたのです。

その後、東京、京都、福岡など、熊本以外で係属していた裁判所において和解勧告が出されましたが、国だけがひとり和解勧告に応じず、被害者患者の救済を拒み続けました。その結果、高齢の水俣病患者が救済されることもなく亡くなっていく状況が生まれました。こうした状況の下、1996年に約1万1000名が救済対象となった政治解決がなされました。
なお、2004年10月には、最高裁も、関西の水俣病患者ら40名が県外患者としては初めてチッソ・国・熊本県に対して損害賠償を求めていた訴訟において、国・熊本県の責任を認めるに至っています。

 水俣病問題を通じてみえてくるのは、政官と産業が癒着して、国民の生命・健康(社会権)や環境保全(環境権)よりも企業の営業権(経済的自由権)を優先し、国の資本としての市場経済を第一に保護していこうという姿勢です。そして、こうした姿勢は、現在の新自由主義経済体制や格差社会、それによって生み出される経済的・社会的弱者を置き去りにしてしまうような社会的風潮に引き継がれているといっても過言ではありません。
 現在でもなお、政府は、手足の感覚障害のみを症状とする患者についても水俣病患者と認定する新たな基準を示した2004年の最高裁判決があったにもかかわらず、それ以降も1977年に当時の環境庁が策定した、感覚障害以外にも視野が狭くなるなどの症状の組み合わせを求める厳しい認定基準に固執し、水俣病患者に対して正当な救済を行おうとはしていません。他方、この最高裁判決を契機として、現在も各地で新たな損害賠償訴訟が提起されています。
 水俣病はまだ終わっていないのです。

コメント「終わらない闘い」

板井俊介(ノーモア・ミナマタ訴訟原告代理人・熊本県弁護士会)

 2004年の最高裁判決によっても、政府は政策を変更せず、司法は行政に無視されており、結局、未救済の水俣病患者らが再び裁判をしなければならない状況にある。
 水俣病問題は、公害問題が「解決された」といっても、それは、国などを含めた加害者にとっての「解決」でしかないことがよくわかる事例である。社会的には「解決」され、教科書でしか勉強しないような事件であっても、現場では、まさに「終わらない闘い」が続いていることを忘れてはならない。