法学館憲法研究所は、憲法を系統的に研究し、個人の尊厳の実現をめざす非政府組織としての自由な研究機関です

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大分

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市民意見広告運動
H・T記

 大分県では、1980年から毎年、憲法9条をかけがえのないものとして生かし、守ろうという、市民による手作りの運動が続いています。

 始まりは、道行く人々に、「平和を祈りつつ歩いています。一緒に歩きませんか」と呼びかけながら大分市の目抜き通りを歩く、女性を中心とする「名もなきひとむれ」の運動でした。米軍基地拡張に反対した砂川闘争で農民が歌った「夕焼け小焼けの赤とんぼ」の生活観を受け継ぎ、会の名前はやがて「赤とんぼの会」となりました。「もっと何かできることはないか」と考えた「会」は、83年からはカンパを出し合って、「戦争への道を許さないで9条を護ろう」という意見広告を出すようになりました。85年には、県内で発行されている5紙すべてに掲載しました。05年には3200名を超える市民が広告主として名を連ねました。

大分発の意見広告運動は、やがて県外の人にも参加を呼びかけ、海外の新聞にまで広告を出す運動になりました。1997年、大分県湯布院町(現在は由布市湯布院町)の住民は、「アメリカの海兵隊は日本にいらない」という市民による意見広告をニューヨークタイムス紙に掲載しようと、全国に呼びかけました。集まった約8000名の賛同者の声は同紙に掲載され、広範なアメリカ市民に届きました。紙面では、海兵隊をはじめとする米軍人による性暴力や殺人など数多くの犯罪や環境破壊、騒音被害などの実態が浮き彫りにされ、アメリカ市民に衝撃を与えました。翌98年にも同様に実施されました。
湯布院町にもまたがる広大な米軍の日出生台演習場付近の住民は、戦後長い間、米兵や演習による被害に苦しんできました。それが、沖縄をはじめとする日本全国から米海兵隊は本国に戻れという切実な声となって噴出しました。アメリカ国内では日本で行われているような基地周辺の住民の人権を無視した訓練、横暴な振る舞い、法的な特例措置は許されていません。アメリカ市民は、米海兵隊が住民の居住地域に近接して師団規模で駐留し、周辺住民に対する人権侵害問題を起こしている事実を知りませんでした。掲載後、アメリカの市民から大きな反響がありました。

現在、世界的な規模で米軍の再編(関連情報1)(関連情報2)が行われています。アジアから北アフリカに及ぶ「不安定な弧」と呼ばれる地域を、軍事力の強化によって封じ込めるためです。アメリカ本土から米陸軍の第1軍団司令部が移って来るなど、「あらゆる司令部レベルの日米一体化」が進行しつつあります。沖縄の米海兵隊は、キャンプ・ハンセンで実施をしていた155ミリ榴弾砲の実弾射撃訓練を、大分日出生台演習場等に分散移転することを申し出てきました。これに対して、住民は、これは米軍の再編強化の一環としての本土の沖縄化であるとして、演習の中止を申し入れていました。その結果、07年1月に予定されていた演習は中止になりました。

憲法第12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と規定しています。憲法前文に規定された先駆的な平和的生存権、それに基づく9条の精神を、意見広告(憲法21条の「表現の自由」)などの創意あふれる運動として一歩一歩実現させていく大分県の住民の運動は、全国的に注目されています。
(2007年3月5日)

普段着で憲法を語ろう

宮崎優子(赤とんぼの会)

 赤とんぼの意見広告は、かつてあの戦争の頃軍国少女だった人たちの思いから始まったものです。日本を神の国だと信じ、お国のために死ぬことを誇りと思う健気な(?)少女だった人たちです。敗戦で教科書に墨を塗られ、鬼畜米英と談笑する大人たちを唖然と見つめた自分を忘れられない世代です。変わり身の早い大人たちに拭いがたい不信感を抱いた記憶はいまだに生きていて、軍国主義の亡霊の出現にはとても敏感です。
 赤とんぼの意見広告が始まったのは1983年、中曽根首相の「日本をアメリカの不沈空母にする」という発言がきっかけでした。もう騙されないぞという思いが強かったのです、黙ってはいられない。寝たきりの人も障害を持って動けない人も九条を守るという意思表示ができるように意見広告という形を考えたのです。最初は大分合同新聞の一面広告だけでした。次の年には大分県下で購読されている全国紙も入れて5紙全部に一面広告を入れることになりました。そのスタイルがずーっと続いています。あれから25年目を迎えて、いかに日本政府が中曽根発言を実現すべく邁進してきたかが窺えます。日本の現状をみれば、もうほとんどアメリカの不沈空母になってますよね。改憲無くしてここまで来る形振り構わぬ強引さにはただただ開いた口が塞がりません。
 私たちに残された道は国民投票です。今準備されている国民投票法案はとんでもなくひどい不平等法案ですが・・・一人ひとりが平等に一票を持っている国民投票で公平な審判が下るよう私たちが情報を伝えていかなくてはと思います。
 憲法は何処か高いところに奉っておくものではありません。私たちの毎日の暮らしの中で生きずいているものです。もうすぐ春がやってきます〜赤とんぼ意見広告が始動します。県下各地の赤とんぼの世話人さんは憲法の語り部です。皆さんそれぞれのスタイルで自分なりの憲法を周りの人に語り伝えます、自分の言葉で語ることが大切です。周りに語りかけることでみんなの抱えている問題も見えてきます、何に関心を持っているかがわかります。06年は「活かせ九条 守れ未来の命を!」という赤とんぼ意見広告に3253名の方々が広告主に名を連ねてくれました。継続は力なり! 
 普段着で、日常会話の中で、私たちが憲法に守られていることを語り続けることで、未来への道が見えてくる気がするのです。


日出生台での私たちの取り組み

浦田龍次(米軍基地と日本をどうするローカルネット大分・日出生台事務局)

 今では年間400万人の観光客が訪れる(由布市)湯布院町。JR由布院駅に降り立つと、多くの人が正面にそびえる標高1853メートルの由布岳の姿に目を奪われる。しかし、同じ湯布院町の北部の日出生台(ひじゅうだい)という所に西日本最大、一世紀を超える軍事演習場があることを知る人はほとんどいない。
 日清戦争が終わり、日露戦争に入ろうとする直前の1898年、湯布院町の北部の山里、日出生台で旧陸軍による初めての軍事演習が行われた。以降、今日までの110年間、この日出生台という場所は、日本の軍事と戦争を支える場として使われ続けてきた。

 記録によれば、敗戦後の1946年から11年間、日出生台には16,000人の米兵と4000人の韓国兵による計2万人の進駐軍が駐留。1950年から始まった朝鮮戦争に、ここで最終の訓練を行って出撃したという。記録によれば、その頃、日出生台には700人を越える売春婦も常駐。湯布院盆地は「酒と女と米兵の町」と言われた。演習場の周辺地域では米兵による地域の女性に対する様々な性暴力事件が頻発。あまりの多さに、一時は女性が全員親戚のところに疎開し、男だけしかいない地域になってしまったとの記録が残されている。


米軍の実射訓練

 1995年、沖縄の県道104号線越え実弾砲撃訓練の本土移転先の一つとして、日出生台演習場の名前が挙がったとき、どこよりも先にこれに反対の声を上げたのは、その進駐軍駐留時代の悲惨さを生々しく記憶している60代以上の人たちが今も多く住んでいる若杉という日出生台に最も近い地域だった。しかし、「現地」というのは、常に利害の入り乱れる状況に曝されており、その後、若杉地域からは、この最初の時以降、反対の声が表に出ることはなくなった。
 しかし、米軍訓練に対する反対の運動は、日出生台の地元の湯布院、玖珠、九重の3つの町の官民一体のまちぐるみの運動となり、96年7月7日、玖珠河原で行われた県民総決起大会には16000人が参加。壇上には、地元3町の町長が並び、米軍訓練に断固反対する拳を突き上げた。
 しかし、その翌年、97年、4月22日、時の久間防衛庁長官が来県し、大分県庁にて「国の責任でやらせていただく」と強行姿勢を示し、大分県知事、地元3町の首長らは「いかんともしがたい」とこれを容認した。

 ちょうど、この頃、私たち住民は、この問題は、日出生台だけの住民の運動で解決することはできない。この問題を日本の全体の問題として、もっと多くの人たちに知ってもらう必要がある。そしてまた沖縄をはじめとする日本全国の基地問題現地の住民どうしが連携し、協力する必要も。さらに、この問題は、米軍を派遣している当事国であるアメリカの国民にもまた訴えかける必要があるのではないかと、ニューヨークタイムス紙への「米海兵隊は日本にいらない」意見広告運動を開始していた。

 結局、この意見広告運動は、97年と、98年の2回にわたって、ニューヨークタイムス紙に掲載を実現した。紙面製作にあたっては、インターネット上で、全国各地で地元の基地問題に取り組む人たちの参加による紙面製作のための会議を開設。運動の課程で、沖縄を始めとする全国の基地問題の現地住民らとの強いネットワークができた。単に掲載をして終わりにしてはならないと考え、掲載後に事務局に手紙やFAX、電子メールで寄せられた米国市民からの反響を、インターネット上で翻訳作業を依頼して、これを整理、編集して、この意見広告運動にカンパをしてくれた支援者に送った。さらに、このアメリカ市民からの意見に返事を出したいと、その後もメールでの意見交換を継続する人も現れた。


Peace on 9(憲法9条によって平和
を守ろう)の火文字

 98年10月、この運動をきっかけにつながった沖縄の女性たちとともに、日出生台から松村真知子がアメリカピースキャラバンに参加。そこで、韓国から参加した平和運動に取り組む女性達と出会い、この縁がきっかけで翌月11月に、韓国・梅香里(メヒャンニ)の米軍射爆場を訪れ、現地の人たちとの交流が始まった。

 2001年、この交流の中から、福岡在住の映画監督西山正啓氏とともに、ドキュメンタリー映画「梅香里」を製作、上映運動に取り組んだ。さらに、2004年、西山監督とともに、韓国、沖縄、日出生台の3ヶ所の現地を結んでのドキュメンタリー映画「ぬちどぅ魂の声」の製作、上映運動に取り組む。

 このような取り組みにもかかわらず、日出生台での米軍訓練の方は、99年に第1回目の訓練が強行され、それ以降、毎年、1月に約1ヶ月滞在して行われるようになった(5年に1回休みが入るが、休みの年度は日米共同訓練が実施された)。155ミリりゅう弾砲による砲撃は、昨年2006年1月、過去最多となる570発を記録。さらに、米軍は、新たに小銃、機関銃の訓練の追加を要求し、地元はこの対応を巡って大混乱となった。しかし、2007年1月に予定されたいた米軍訓練は結局「米軍側の運用上の都合」により、突然中止。米軍は地元を振り回すだけ振り回したあげく、この訓練追加問題は来年以降へと持ち越されることになった。

 2007年10月、日出生台での米軍訓練の内容を規定した「米軍使用協定」は5年ごとの更新の時期を迎える。米軍側はこの協定を改定して、訓練拡大を認めさせようとしてくると考えられ、今年の米軍訓練が中止になったとはいえ、この問題をめぐる混乱はまだ収まりそうもない。

 私たち、住民は、あたりまえの穏やかな暮らしをここで送りたいだけだ。地域でどう生きるのかを決めるのは、地域住民であって、他のどんな力もこれを侵すことは許さない。
 100年以上の軍事演習場として使われ続けた日出生台からいつか砲声がなりやみ、いつでも誰でも気軽にそこに入ることができ、ゆっくりと憩うことが出来る場所になるまで、また隣国と本当に和解しあい、銃を向けあう必要がなくなる日まで、私たちは今後も住民としてできる、あらゆる努力を続けていきたい。


ローカルネット大分・日出生台のホームページ