法学館憲法研究所は、憲法を系統的に研究し、個人の尊厳の実現をめざす非政府組織としての自由な研究機関です

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宮崎

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コンピュータ・ゲームソフト有害図書指定事件
Y.M.記

 基本的人権の中でも「表現の自由」は、他者とのコミュニケーションを通じて自分自身を高めたり、またみんなの自由な討議によって物事を決めていくという民主主義を維持していく上でも、その根幹をなす重要なものであるといえます。もっとも、表現の自由といえども、絶対無制約なものではありえません。表現の自由さえ振りかざせば、他人のプライバシーを公開することも許されるということにならないのは明らかです。
 このように、表現の自由にも一定の制約が予定されているといえますが、しかし問題は、どのような表現行為が、どのような場合に、どのような理由で、どのような基準でもって制約されるのか、ということです。これを厳格にしておかないと、表現の自由は、その本来の意義が簡単に失われてしまうことにもなりかねません。とりわけ、表現内容に対する規制は、ともすれば公権力が恣意的に一部の表現物を排除する機会を与えることにもつながりかねないだけに、一層の注意が必要です。この点でよく争われるのが、いわゆる「わいせつ表現」についてでした。そして、ここでとりあげる事件は、あるゲームソフトのフロッピーディスクを販売していた業者Xが、その内容を理由に県から有害図書類の指定処分を受けたことを争った事例であり、そこにはさらなるもうひとつの論点が伏在していたのです。

 この業者Xが扱っていたフロッピーディスクのゲームの大まかな内容とは、登場するアニメーションの女子高生が出題するクイズに正解すると、それに従って徐々にその女子高生の衣服を脱がしていくことができ、最終的には全裸になったその身体にタッチすることで女子高生が感応するような仕草をする、というものでした。
 1992年7月17日、宮崎県知事は、このフロッピーディスクが「著しく〔18歳未満の・・・補注〕青少年の性的感情を刺激し、その健全な成長を阻害するおそれのあるもの」と判断、「宮崎県における青少年の健全な育成に関する条例」13条1項に基づいて「有害図書類」としての指定処分を行います。ちなみに、「有害図書類」の指定処分がなされると、それらを扱う業者は、青少年に対してそれらの販売を行ってはならないだけでなく、それらを店舗で陳列する際にも一般図書とは区分して青少年の目に触れないような措置を講じなければならないものとされます(同13条1項、4項)。
 これに対して、このフロッピーディスクの製造販売元である業者Xが、本条例13条1項に基づくこれらの処分は憲法21条2項が禁じた「検閲」に該当し、またこの規制手段が最小限とはいえず規制対象の範囲も漠然としていることから、一切の表現の自由の保障を定めた憲法21条1項に反するなどとして、県知事を相手取りこの処分の取り消しを求めて訴えを起こしたのです。

 1994年1月24日、第1審宮崎地裁は、原告業者Xの訴えをことごとく退けました。同裁判所によれば、本件の「有害図書類」指定制度は、青少年の健全な成長の維持を目的として、青少年に対してのみ販売を禁止する制度であり、すでに発表されたこれらの図書類の販売自体を禁止するものではないから「検閲」にはあたらない。また、この制度による規制には、「青少年の健全な育成」という合理的な目的があり、規制手段も青少年に対する販売等を規制するだけであって、規制対象も実際には明確性が認められることから、表現の自由に対する不当な制約とはいえない。以上のように同裁判所は判断して、それ以外の多岐にわたる原告の訴えについても退けたのでした。
 そして、1995年3月1日、第2審福岡高裁も、1999年12月14日、最高裁も、基本的に第1審と同じ立場に立って、原告である業者Xの訴えを棄却したのです。

 先にも述べたように、いわゆる「わいせつ表現」をめぐっては、表現の自由の観点からその規制の目的や手段について、あるいはまたそもそも規制の是非について、これまで多くの議論がなされてきました。そして、それに付随するような形でしばしば議論の対象となってきたのが、本件におけるような論点です。
 確かに、いわゆる「有害図書類」に、裁判所のいうような「青少年の健全な育成」を阻害する因果関係がみられるのであれば、こうした規制にはそれを支持するだけの強い理由(立法事実)があるといえそうです。しかしながら、ここでやはり注意しなければならないのは、なにをもって青少年に「有害」となるかの客観的な判断基準であるように思われます。成長の発展段階にあり精神的に未熟とされる青少年といえども「知る権利」は最大限保障されなければならないのであり、公権力側の勝手な思惑によってそれが不当に遮断されることのないようなシステム作りを心がけていかなければならないでしょう。それと同時に、インターネットが普及した現在において、表現の自由と「青少年の健全な育成」を調整するための新たな取り組みが求められているように思われます。