法学館憲法研究所は、憲法を系統的に研究し、個人の尊厳の実現をめざす非政府組織としての自由な研究機関です

法学館憲法研究所

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1947年

 
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「不逞の輩(やから)」発言と2.1ストの禁止
H.T.記

 戦後の日本の変化は、まさに革命といえるものでした。「民主主義革命」です。一般に、政治や社会の永続する革命は現地の社会の中から、すなわち「下から」生まれてきます。
 しかし、日本の戦後は連合国の占領・軍事的な支配による「上からの革命」として出発しました。これは世界史的にも異例でした。GHQはまず、45年10月4日、思想・言論規制法規の撤廃と政治犯の釈放を指令しました。自由で民主的な社会を建設するためには、思想や表現の自由がまずもって保障されなければならないことを物語っています。この権利は「下からの革命」の要石です。次いで同月11日、憲法改正を示唆するとともに、労働組合の助長、婦人解放、教育自由化などのいわゆる「5大改革」を指示しました。12月には、末弘厳太郎座長の委員会の諮問に基づき、労働組合法が制定されました。

 その結果、45年から46年にかけて労働組合が急速に結成されました。46年8月には社会党の指導下にあった日本労働組合総同盟(組合員数86万人)と共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)(組合員数157万人)が創立されました。産別会議は、同年8,9月には国鉄(JRの前身)や海員の組合が首切り反対闘争を行い、10月には電産、新聞、通信、石炭などの組合の労働争議が始まりました。尤も、争議による作業量の損失はそれまでは1%以内に止まるものでした。労働組合は、12月には、生活を守るためには政治闘争が必要だとして、吉田茂内閣打倒を掲げ50万人を集めて国民大会を皇居前広場で開催しました。

 急速な労働運動の盛り上がりは、政府や、ニューディール派が主導権を持っていたGHQの予想を超えました。背景には、食糧不足と激しいインフレで餓死者も出る極度の貧困と政府やGHQの無策がありました。また、戦前からあった産業報国会など企業別の従業員の組織が戦後の労組の結成を容易にしました。さらには、マルクス主義理論の広がりがありました。

 占領下にある日本人がどの程度まで「実力を行使」した場合GHQが介入できるかは、45年9月、米大統領によって承認された「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」に記載されています。この「介入」が最初に問題になったのは、46年5月のメーデーにおける数百万人が参加したデモ(「プラカード事件」で有名な食糧デモなど)でした。このデモは破壊や暴力を伴うものではありませんでした。しかし、最高司令官マッカーサーは、これは「暴民デモ」であり、「集団的暴力行為は、日本の将来の発展に重大な脅威となる」と警告しました。これは、労働者・市民が自発的に行う表現行為の限界を告げたものとしてショックを与えました。

 労働争議が高揚する中で迎えた47年の元日のラジオ放送で、吉田茂首相は、「経済再建のための挙国一致を破らんとするがごときもの」を「不逞の輩」と呼び、「彼らの行動を排撃せざるをえない」と述べました。マッカーサーの「暴民」と気脈を通じる発言でした。

 これに対して労組はいっせいに反発し、賃上げなどを求めて1月9日には全官公庁労組拡大共同闘争委員会がゼネラル・ストライキ(ゼネスト)実施を決定しました。ゼネストとは、全国的な規模で行われるストライキです。ちなみに、国労組合員の平均賃金は、生活費の4分の1をかろうじてまかなえる程度でした。1月15日には民間の組合も合流し、全国の労働組合の共同闘争委員会が結成され、要求が2月1日までに受け入れらない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告しました。スト中止勧告を拒否した共闘に対してGHQは、1月31日、公開の中止命令を発し、組合側はやむなしとしてストを中止しました。全官公庁共闘の伊井弥四郎議長は、ラジオで涙ながらに「一歩退却、二歩前進」と訴えました。

 ゼネストは不発に終わりましたが、これをきっかけに官公庁労働者の労働条件は大きく改善され、労働組合の共闘・統一も大きく前進し、民間も含めて労働組合の組織率もますます高まってゆきました(49年には推定組織率約56%)。同時に、ゼネストに対する弾圧は、日本の労働者が自発的に「民主的な」改革を担う可能性の限界を明確に示し、GHQを「解放軍」視さえしてきた従来の視点の転換を迫ることとなりました。