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1948年

 
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戦争犯罪人に対する裁判と天皇の責任
H.T.記

 ポツダム宣言第10項に基づく、アジア・太平洋戦争の「戦争犯罪人に対する処罰」は、46年に開始されました。この年の1月、マッカーサーは、極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣言を発するとともに、これに付属する極東国際軍事裁判所条例に基づいて裁判を行うことを命じました。この条例による裁判所の管轄に属する犯罪は、(1)「平和に対する罪」(2)「通例の戦争犯罪」(3)「人道に対する罪」でした。(1)の「平和に対する罪」とは、侵略戦争又は条約等に違反する戦争の計画、準備、開始、遂行やこれらのいずれかを達成するための共通の計画又は共同謀議への参加です。(2)の「通例の戦争犯罪」とは、戦争法規又は慣例違反、(3)の「人道に対する罪」とは、戦前又は戦時中の殺人、せん滅、奴隷的虐使その他の非人道的行為等です。

 (1)の裁判は、戦争指導層に対するもので、A級戦犯裁判と呼ばれています。(2)(3)の裁判は特定の地域の戦争犯罪に対する裁判でBC級戦犯裁判と呼ばれています。(2)と(3)、B級とC級は現実には混同されることが多く、「BC級」戦争裁判と呼ばれるのが普通です。

 この条例に基づいて、46年5月、A級戦犯に対する裁判が東京で開始されました(「東京裁判」)。判事は11の連合国から1人ずつ参加しました。国際検察局は首席検察官キーナン以下500名近い陣容で、大多数のスタッフはキーナンを含めてアメリカ人でした。アメリカは、世界戦略をにらんだ日本の占領政策に沿った訴追と裁判運営を進めました。判決は48年11月に言渡されました。6か国の判事による多数判決でした。起訴された28人のうち、東条英機元首相ら7名が絞首刑(同年12月23日執行)、16名が終身刑でした。

 他方、BC級戦犯に対する裁判は、横浜の他、戦場となったアジア各地を中心に国内外49カ所で行われました。被告人は5,700人、死刑判決は984人でした。被告人には日本の植民地支配下にあった朝鮮や台湾出身者の軍人軍属も含まれています。

 これらの裁判の結果、対象となった1928年以降に日本が中国等で犯した蛮行が法廷の場で初めて明るみに出ました。中国兵の爆破で開始したと宣伝されていた満州事変は実は関東軍の謀略だったことや南京大虐殺の事実などを知った日本国民は、「だまされた」ことに大きな衝撃を受けました。国民は、政府やマスメディアが言うことを鵜呑みにせず真実を知ることの大切さを学びました。
 
 また、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が新たに設けられ裁かれたことも、戦後の平和な世界を構築するうえで大きな意義を持ちました。もっとも、これは、従来犯罪とされていなかった行為について後から犯罪として処罰することは許されないという刑事法の原則(事後法の禁止)に反するというインドのパル判事その他の意見があります。確かに重要な問題であり、政治的な「勝者による裁き」だったことは否定できないと考えられます。しかし、ナチス指導者を裁いたニュルンベルグの裁判同様、これからは重大な戦争犯罪を強力に抑止する世界を創っていくのだという方針を世界は支持しました。

 裁判の政治性という点で最大のポイントとなるのは、天皇を免責したことです。天皇は、最高司令官たる大元帥でした。その天皇に、統帥権の独立と陸海軍の対立傾向によって、首相や国務大臣も知らない最高度の軍事情報が集中していました。天皇は戦局の全体を常に把握し、「能動的君主」として命令、作戦計画を変更させることも少なくありませんでした。天皇は、41年11月5日の御前会議で、明確にアメリカに対する開戦を決意しました。「御上にも御満足にて御決意益々鞏固」(陸軍参謀本部による機密戦争日誌)。終戦についても、側近の勧めに従っていれば、早く停戦交渉に入ることも可能でした。連合国の間では天皇を逮捕すべしという強硬な意見が少なくなく、アメリカの多数の世論も天皇の責任を問うていました。
大元帥である天皇を訴追しなかったこと、さらには終戦直後には退位の意思もあった天皇をその地位に止めた背景には、天皇を新憲法に組み込み独特の日本型民主主義体制(「敗北を抱きしめて」の著者ジョン・ダワーによれば「天皇制民主主義」)を作って戦後の日本と世界を支配したいという当時のアメリカの指導層の戦略がありました。アメリカは、天皇は平和主義者で戦争遂行に関しては形式的な役割しか果たさなかったという「物語」作りのキャンペーンを大々的に展開し、これに反する議論は強力な検閲で禁止しました。この「物語」は日本の独立後も続いています。

 最高責任者である天皇の責任を法的にも道義的にも不問に付したことは、今日に至るも日本人の戦争責任の意識を希薄にしました。のみならず、指導者の政治や道義面での責任のとり方にけじめがつかなくなりました。

 免責という点では1500万人〜2000万人ともいわれる最大の犠牲者を出したアジアに対する犯罪の責任追及が軽視されたことも重大です。東京裁判の判事団にはアジアからは3名しか参加を認められませんでした。朝鮮の代表はいませんでした。アジア軽視のつけは、80年代末から表面化して現在に至っています。東京裁判は、基本的には、日本から植民地を回復した米英仏蘭など帝国主義国家による旧帝国主義国家に対するダブルスタンダードを持った裁判という性格を有していました。

被告人の範囲も恣意的に絞られました。東条が率いた統制派以外の軍人、軍部と一体となって戦争を推進した財界人、政治家・官僚の多数、中国で化学戦に従事した731部隊や1644部隊などの責任は問われませんでした。

占領は、占領された国民自身による戦争犯罪の追及の禁止と同義ではありません。戦争に対する強い怒りは、日本人自ら訴追を免れた戦犯を追及したい、あるいは東京裁判に日本人も参加したいという声となって現れました。しかしこのような主張は46年の終わりごろには発禁処分になりました。戦争に対する反省の徹底は、21世紀の日本と世界の平和を建設するうえで思想的、人道的、政治的に不可分の課題として私たちに引き継がれています。