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1949年

 
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「長崎の鐘」・「下山、三鷹、松川事件」
H.T.記

T 「長崎の鐘」

 人類の終末を思わせる核兵器の被害は、もう戦争は絶対にしてはいけないという想いを強く抱かせました。長崎医科大学教授・永井隆博士が病床で書いた「長崎の鐘」と「この子を残して」は、1949年、2冊ともベストセラーになりました。平和への夢を記した文学がベストセラーに入ったのは、これが最初でした。それまで彼の原爆体験に関する著作はGHQによる検閲の網にかかっていました。

 45年6月、永井は長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受けました。 8月9日 長崎に原子爆弾が投下されたときは、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室で被爆しました。右側頭動脈切断という重傷を負いながら布を頭に巻くのみで、救助に当たりました。翌日帰宅し、爆死している妻を発見しました。

 原爆とは何かという問題に情熱的に取り組んだ永井の著作群は、その行動とともに多くの人の胸を揺さぶり、「長崎の聖者」と呼ばれました。永井は、51年、2人の子供を残して43歳で他界しました。

 49年7月、「長崎の鐘」をモチーフにした同名の歌がコロムビアレコードから発売され、大ヒットしました(作詞サトウ・ハチロー、作曲古関裕而)。“こよなく晴れた 青空を”で始まるこの歌は、藤山一郎の高潔な歌唱力に乗って全国に広まりました。
 翌50年には、これを主題歌とし永井の生涯を描いた映画が新藤兼人の脚本で完成しました。原爆を取り扱った劇映画の第1号です。

U 下山、三鷹、松川事件

 非軍事化と民主化を2大目標として進めた占領第1期は、『長崎の鐘』が世に出る前の年の48年に終わっていました。48年1月、ロイヤル米陸軍長官は、日本の軍事化と経済復興を優先するよう、占領政策の転換を求めました。このロイヤル文書は、映画「戦争をしない国 日本」で説明されています。同年10月、米国務省のジョージ・ケナンらは、日本を反共の防波堤として冷戦体制に組み込むための政策転換を公式に承認した「日本に対するアメリカの政策についての勧告」を作成しました。
 
 経済復興を推進するため、49年2月、デトロイト銀行頭取のドッジがGHQの経済顧問として来日し、財政金融引き締め政策を推進しました。日本国有鉄道(JRの全身)の労働者10万人を含む官公労働者27万人の解雇もその一環です。同時に民間企業でも大量の人員整理が発表されました。労働者側はこれに抵抗して各地で激しい労働争議となりました。占領軍や当時の吉田茂内閣は、徹底的に弾圧する姿勢を見せていました。当時国鉄労働組合や共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)は、人員整理に強く反対していました。

 国鉄総裁下山定則氏が第一次の人員整理を発表した7月4日の翌5日の朝、同氏は国鉄の常磐線の線路上で轢死体として発見されました。増田甲子七官房長官は解剖の結果が出ない段階で他殺を示唆し、共産党系労組の犯行を印象づけました。警視庁は自殺と断定して捜査を終了しますが、GHQの圧力でその発表は取りやめになり、結局原因不明のままになりました。

 7月15日には、中央線の三鷹駅で電車が暴走し、同駅利用客6人が死亡し、重軽傷者20人を出しました。吉田茂首相は社会不安の原因は共産党にあると非難しました。12人が共同謀議によるものとして起訴されましたが、共同謀議は「空中楼閣」であるとして否定され、共産党員11名は無罪となりました。非共産党員の竹内被告1名のみが死刑判決を受けました。最高裁では8対7の評決でした。同被告は無罪を主張する再審請求中に獄死しました。

 続いて8月17日、国鉄の東北本線金谷川―松川両駅間(現在の福島市松川町)で、上り旅客列車が脱線転覆し、機関車乗務員3名が死亡しました(松川事件)。レールが1本、完全にはずされていました。国鉄労組と東芝松川労組の各幹部・活動家らによる共同謀議に基づく列車転覆罪として、両労組関係者20名が起訴され、1審は検察の主張をほぼそのまま認め、5人の死刑を含め全員を有罪としました。これら3事件を含むいくつかの謎の事件の影響により、「労働運動は悪である」というイメージが広がり労働運動は大きな打撃を受け、各界における人員整理は、当初予想された程の混乱もなくスムーズに進行しました。松川事件は、5審・14年の長期裁判の末に、被告全員が無罪となり、その後の国家賠償裁判において、捜査から裁判までのすべてが国家機関による違法行為だったと認定されました。この裁判では裁判所が1審段階から被告人の無罪を証明する証拠を握りつぶすなど、その訴訟指揮や判断にも強い批判が集中しました。松川事件は謀略事件であった可能性が極めて高いとされています(日本全国憲法MAP福島編(1)伊部正之元福島大学教授のコメント)。

 仮に、国策による市民の殺人が許され、あるいは思想の如何で死刑になるとすれば、「自由」の核心を破壊します。この3事件は、戦後の日本が目指そうとしている「自由」とは何かを、深く考えさせ続けています。