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1953年

 
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空母オリスカニ横須賀に配備 ― 核兵器の持ち込みが始まった
H.T.記

 日本国憲法は、戦争を違法化する歴史を進めた不戦条約(1928年)や国連憲章(1945年6月)の後に制定され、9条で戦争放棄、戦力の不保持を謳いました。その間に、「ヒロシマ・ナガサキ」という、人類未曾有の経験がありました。核爆発の凄まじさないし核戦争は、「戦争は政治の継続」という古典的理解、及び勝利のために戦うという戦争の概念をも吹き飛ばしました。

 核兵器を「持たず、作らず、持ち込まさ(せ)ず」という非核3原則は、1967年の国会で佐藤首相が公式に表明して以来、日本の核政策の基本とされてきました。政府は、55年の鳩山首相の発言を含めそれ以前にも一貫して日本への核の持込みはなかったと説明しています。しかし、それは「タテマエ」であり、「ホンネ」は米軍に核兵器を持ち込ませて日本を核攻撃の基地とすることにあるのではないかという“疑惑”が存在していました。

この「ホンネ」こそ真実だったことを、08年11月9日に放映されたNHKスペシャル「こうして“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」は生々しく報道しました。米国立公文書館の文書や当時の日米の軍関係者の証言など、豊富な資料に基づいています。これによると、朝鮮戦争末期の1953年6月、アメリカのアイゼンハウアー大統領は、初めて空母への核配備の許可を決定しました。その8日後の6月28日、空母オリスカニに核が搭載されました。3か月後の9月、オリスカニはアメリカのアラメダ海軍基地から日本に向かい、途中で核を降ろすことなく、10月15日横須賀に入港しました。オリスカニの艦内には、核兵器組み立ての部屋があり 部屋いっぱいに核爆弾のマーク5がありました。このとき、空母から核攻撃できる態勢がようやく整ったとされます。オリスカニが到着した直後から神奈川県の厚木基地より核攻撃専用機AJがオスカルニに着艦訓練を 繰り返していました。そして、ある日、司令官は核攻撃の準備をするよう命じ、核部隊員は核爆弾を組み立てました。甲板にはAJが来ていましいた。平壌周辺の軍事施設が目標でした。出撃態勢が取られて3日後、突然キャンセルされました。後に実戦を想定した訓練だったことが明らかになりましたが、隊員は全員、ヒロシマ・ナガサキに続いて史上3回目の核攻撃を実行することを覚悟しました(核部隊員 ケネス・ペリー氏証言)。しかし、朝鮮戦争は、オリスカニがまだアメリカにいた7月27日には既に休戦になっていました。オリスカニの行動は、休戦協定成立後もいつでも核攻撃可能な態勢を整えていたことを意味します。

 その後もオリスカニを含む米第7艦隊は、ソ連や中国との全面核戦争に備えた極秘の作戦「サイオップ」等に基づいて展開してきました。米海軍には核兵器が溢れていました(米第7艦隊旗艦の元艦長ラロック氏)。海上自衛隊の最も重要な任務は、アメリカの攻撃能力を補完することだったとの証言も出てきます。アメリカは日本を最前線の基地、すなわち盾として使いました(NHK)。

 今年9月、『東奥日報』の斉藤光政記者が出版した『在日米軍最前線 軍事列島日本』は、嘉手納基地に最低でも200個以上の核弾頭が貯蔵されていたことを明らかにしました。核貯蔵の具体的事実が示されたのは初めてです。

 「アメリカが“ない”というのだから“ない”ことにしておこうと考えていた。誰も本気にしていなかった」(上記NHK番組にて元防衛庁事務次官の夏目晴雄氏)。

 「1953年の話題」は、1953年当時には「疑惑」としてであれ「話題」とすることは不可能でした。2008年にはもはや「疑惑」ではない「事実」になりました。国民のいのちに関わる核戦争態勢情報を極秘にして政策転換した政府。非核3原則の法制化を求める国民の声は、国会や政府に届くでしょうか。