法学館憲法研究所は、憲法を系統的に研究し、個人の尊厳の実現をめざす非政府組織としての自由な研究機関です

法学館憲法研究所

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1954年

 
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ビキニとゴジラ
H.T.記

T ビキニ・スタイル

 1946年、アメリカは、信託統治地域である太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、第2次世界大戦後初めての原爆実験を行いました。その報道直後の同年7月5日、フランスのデザイナーであるレアールがその大胆さが周囲に与える破壊的な威力を原爆にたとえ、ビキニと命名してこの水着を発表したと言われます。日本では、その後キャンペーンガールのアグネス・ラムのビキニ姿のポスターで人気が広がりました。

U ビキニ環礁での被爆

 1946年から67年まで、アメリカ軍はビキニ環礁とエニウエトク環礁で67回の原水爆実験を行いました。中でも54年3月1日の広島型原爆のおよそ1000倍といわれる史上最大規模の水爆実験は、広い太平洋や大気圏を強力な放射能で汚染しました。同日、静岡県焼津漁港の乗組員23名の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」は危険地域外とされ事前の移動の対象とならなかった地域で操業中に被爆しました。無線長の久保山愛吉さんが同年9月に放射能障害で亡くなったことは有名です。しかし、その後も同乗組員の半数の12人がガンなどを発病して亡くなり、あるいは奇形児を出産したり、周囲の目を気にしてひそかに暮らして来た事実はほとんど知られていません(大石又七さんのコメント日本全国憲法MAP静岡編2)。被爆した船は第五福竜丸だけではなく、厚生省が認めただけでも856隻、およそ1000隻に及び2万人近くが被爆したと言われます。

 久保山さんは、アメリカによる核実験だと気づいたとき、軍事機密を知った故に証拠隠滅のために米軍に撃沈されることを恐れ、SOSを打電することなく逃げるように帰国したと語っていました。以前にも同海域で消息不明になった漁船があったことを知っていたからです。

 ヒロシマ・ナガサキに続いたビキニ環礁における3回目の被爆、とりわけ久保山さんの死は大きな衝撃を与え、世界的に原水爆反対の声が高まりました。翌1955年8月には、日本で原水爆禁止第1回世界大会が開催されました。現在、第五福竜丸は修復され、東京・夢の島公園にある「第五福竜丸展示館」で訪れる人を待っています。

V ゴジラの出現
 
 かつては、お正月映画の定番とまで言われた怪獣「ゴジラ」の映画。今までに28作制作されました。「ゴジラ」を誕生させたのはビキニ環礁の水爆実験でした。1954年の末に第1作が公開されました。ゴジラは、大昔生息していた生物が、水爆実験の影響で住んでいた環境を破壊されて地上に現れた「核の落とし子」です。太平洋上で船舶を襲った後、東京を襲撃します。本多猪四郎監督は、「真正面から戦争、核兵器の恐ろしさ、愚かさを訴える」と語りました。人間の身勝手で現れたゴジラに人間がおびえるという設定も人気となり、961万人もの観客を集めました。円谷英二さんの特殊撮影技術も脚光を浴びました。
 ゴジラが国会議事堂を破壊すると、観客は立ち上がって拍手したという逸話があります。当時の政界では造船疑獄事件などで政治に対する不信が国民の間に高まっていました。

 この初代ゴジラは、最後には芹沢博士が発明したオキシジェン・デストロイヤーによって殺されます。当時のアメリカの原子怪獣映画のように軍隊によって殺す方法を採らなかったこと、芹沢博士が科学者の良心としてオキシジェン・デストロイヤーを使用することに煩悶したことなど、現在にも通じる深い問題も提起しています。