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1955年

 
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55年体制の成立
H.T.記

 1955年、左右に分裂していた社会党が統一され、次いで日本民主党と自由党も合同して自由民主党が結成されました。この政党体制はのちに「55年体制」と呼ばれ、93年に非自民である細川護煕連立政権ができるまで、38年間続きました。

 51年のサンフランシスコ講和条約で占領軍という絶対的権力がなくなった後の日本では、一つは、軍事をどうするかが大きな問題になりました。講和条約と同時に締結された日米安全保障条約と自衛隊による軍備だけでは不十分であり、憲法を改正して本格的な再軍備をすべしという意見が、アメリカの要求もあって次第に強まりました。当初は憲法改正に消極的だった自由党の吉田茂首相に業を煮やしたアメリカのダレス国務長官は、鳩山一郎に会うことに一つの活路を見出しました。ダレスに対して鳩山一郎など公職追放された政治家たちと会うことを薦めたのは、昭和天皇でした。天皇はダレスに文書を送り、公職追放の緩和に言及しました。政界に復帰した鳩山は、憲法改正・再軍備を掲げて民主党を率い首相になりました。もう一つは、占領軍の重しがとれたこともあって、天皇の元首化、人権の制限など軍事面以外での戦前回帰が問題になりました。

 この「逆コース」と呼ばれる動きに対して、4年前の51年の党大会で分裂していた左右両派の社会党は強い危機感を持ちました。分裂は、主として単独講和条約に対する賛否をめぐって生じました。しかし、単独講和が既成事実となった以上、決定的な意見の対立は小さくなっていました。当時の衆院の社会党は、左派89人、右派67人で、両者合わせれば156人という大きな力になりえたことも背景にあって、55年10月に両派は合同しました。

 他方、保守側も合同の機会を探っていました。吉田茂を支持する自由党の政治家たちもやがて改憲に賛成し、民主党との意見の相違は小さくなっていました。合同を強く後押ししたのは、革新政党の拡大を危惧する経済界でした。社会党が統一された翌11月、民主党と自由党は合同して、「自由民主党」を結成しました。党名の公募では「日本保守党」が最多となりましたが、この案は選挙に不利だとして採用されませんでした。かくして、55年は、敗戦後10年たって保革の2大政党を中心とした政党政治が各種の問題を抱えながらも確立した重要な年となりました。

 当時の新聞論調のほとんどはイギリス流の保革の2大政党による政権交代可能な緊張感のある与野党関係に期待を寄せていました。

 「55年体制」は、結果として「吉田自由党」の日米安保条約を基盤とする日米協調の基本路線を引き継ぎ、また、比較的安定して経済成長路線を進める自由民主党一党支配の時代となりました。自由民主党と社会党の議席の比率は概ね2対1で、「改憲を阻止する体制」でもありました。社会党は次第に議席を減らし、代わって共産党、公明党などが野党として「2対1政治」の構成員として加わりました。

 自民党1党による長期政権の継続は、政財官の癒着構造、官僚政治などを強固にし、「民意の忠実な反映」という国民代表の機能(43条)にも重大な問題を蓄積しました。