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1958年

 
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憲法改正の動きと「憲法問題研究会」の発足/団地族・インスタント元年
H.T.記

T 憲法改正の動きと「憲法問題研究会」の発足

 1958年の6月には、湯川秀樹、我妻栄、宮沢俊義など代表的な知識人が「憲法問題研究会」を発足させ、「憲法の基本原理とその条章の意味をできるだけ正確に研究し、関心を抱く国民各層の参考に供」することを目的として講演会等憲法の普及活動を始めました。以下の経緯によります。

 そもそも、日本国憲法が審議される段階では、理想主義的な知識人や社会党、共産党は、憲法の生活保障や平等の規定が抽象的過ぎるなど、むしろ批判的に見ていました。憲法を全体として彩る自由主義的な理念が、「主食にイモをかじる」当時の生活状態に適合しないと思われたからです。しかし、その後経済状態も安定して来て、憲法にうたわれた理念を実現できるだけの社会的基盤が整うに従い、第9条とともに、憲法は広範な人々の中に受け入れられて行きました(小熊英二「民主と愛国」)。

 しかし、逆にアメリカは、早くも憲法9条の改正を要求して来ました。これに呼応して自由党と改進党は、保守合同の前年である1954年に、相次いで憲法改正案を公表しました。これらは、@9条を改正して軍隊を持つこととする他、A大日本帝国憲法の時代への復古的な改定を目的にしていました。すなわち、天皇を元首ないし国の代表とすること、公共の秩序のための法律による人権の制限、家族制度の復活、国家に対する忠誠の義務などを定めることを内容にしていました。これは憲法が国民に定着しつつあることを読み誤っており、翌55年の総選挙では護憲派が躍進しました。そこで、あくまで改憲を志向する合同した自民党・岸内閣は、復古色を薄めたうえで、57年8月、内閣に憲法調査会を発足させました。調査会の委員は国会議員と政府が任命する学識経験者でしたが、社会党は参加しませんでした。

 この憲法調査会は、日本国憲法下における最初の本格的な憲法改正のための公的な活動でした。上記の「憲法問題研究会」は、これに対抗して設立されたものです。憲法調査会は、以後7年間に及び活動し、64年7月、最終報告書を提出しました。それは、この間の「憲法問題研究会」を柱とする護憲論の高まりの影響を受け、改憲意見を中心としつつも両論併記の形をとりました。この報告書以降、明文改憲を求める動きは大きく後退し、解釈改憲が主流となりました。

U 団地族・インスタント元年

 1958年には「団地族」という言葉が生まれました。前年には、埼玉県・草加市の当時東洋最大と言われたマンモス団地である「松原団地」の居住が始まっていました。この頃、急速に都市化が進み、都市中産階級が生まれつつありました。58年は日清食品からインスタントのチキンラーメンが発売され、爆発的な人気を博した年でもありました。以後次々とインスタント食品がお茶の間に入ってきます。インスタントコーヒーが発売されたのは、60年、森永製菓からです。58年は「インスタント元年」と呼ばれました。

 家庭の幸福を大切にするマイホーム主義は、一面では政治的無関心を生む土壌にもなりましたが、他面で私生活の平穏を脅かす政治に対してはノー!を突きつけました。プライバシーの権利(憲法13条)の目覚めです。58年10月、岸内閣は、警察官の職務質問や所持品調べの権限を拡大し、国民の集会・デモの自由(21条)を大幅に制限する警察官職務執行法の改正案を国会に上程しました。これに対して市民は、治安維持法とオイコラ警察の復活であるとして大規模な統一行動で反対運動を展開しました。週間明星も“デートもできない警職法”と若者にアピールし、戦後派も多数参加して11月5日には全国で1,000万人、同15日には1,500万人が集会・デモに参加し、同法案を廃棄にさせました。日本弁護士連合会が、第1回人権擁護大会を開催したのもこの時です。58年は、戦前回帰の「逆コース」に一定の歯止めをかけた年でもありました。