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1959年

 
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砂川事件判決/皇太子の結婚
H.T.記

T 砂川事件判決
  
 1959年は、最高規範(98条1項)である憲法の上に、日米安全保障条約による法体系を置いた重要な年になりました。

 米軍基地の接収や拡張に反対する地元住民の反対運動は、1953年の石川県の内灘村(当時)をはじめ、全国に広がっていました。55年には、米軍機のジェット化等に伴い、米軍から40飛行場の拡張を要請され、鳩山内閣はこれを受け入れたため、土地を奪われ生活権を脅かされる住民は各地で大きな反対運動を起こしました。東京都下の砂川町(当時)の立川飛行場もその一つです。基地拡張に反対するデモ隊のうちの7名が基地内に1時間、4.5メートルほど立ち入ったとして、「(旧)安保条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」違反として起訴されました。この裁判では、安保条約による米軍の駐留は憲法9条2項の「戦力」として違憲になるかが争点になりました。

 第1審の東京地裁は、9条の解釈は憲法の理念を十分考慮してなされなければならないとし、「安保条約締結の事情その他から現実的に考慮すれば…、かかる米軍の駐留を日本政府が許容していることは、指揮権の有無・出動義務の有無にかかわらず、9条2項前段の戦力不保持に違反し、米軍駐留は憲法上その存在を許すべからざるものである。」と判示しました(59年3月)(裁判長の名前を採って「伊達判決」と呼ばれます)。
 
 この判決は、翌年の60年に安保条約を改定する準備を進めていた日米両政府にとって大きな打撃となりました。そのため、政府は、高裁を飛び越して最高裁に異例の飛躍上告を行い、最高裁はスピード判決で、年内の12月に違憲判決を破棄しました。これを受けて、60年1月には、日米両政府によって新安保条約が調印されました。
 
 最高裁は、駐留外国軍隊は憲法9条2項が禁じる「戦力」に該当しないと示しました。「戦力」とは「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであ」るという理由です。最高裁は続けて、「安保条約は…主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものであって」違憲かどうかの判断は内閣や国会の自由裁量的な判断に委ねられ司法裁判所の審査には原則としてなじまないとしました。しかし、「一見極めて明白に違憲無効である」場合は司法審査できるが、安保条約の目的は平和と安全を維持し戦争の惨禍が起こらないようにすることだから、「一見極めて明白に違憲無効」とはいえないと結論しました。

 この判決は大変分りにくいと評されています。日本の指揮権、管理権が及ばない外国の軍隊だから合憲だというのでは、9条が「目的」として明示している「国際平和を誠実に希求」することができるのかということがまず問題になります。そのため、最高裁は、安保条約の条文の文章を理由にして「一見明白に違憲」ではないと判断しました。これに対しては、裁判というものは、条文の字面ではなく、実態に基づいて行うべきものであるという問題があります(立法事実論)。ベトナム戦争やイラク戦争に参戦している在日米軍の実態を見ると如何でしょうか。さらに、「高度の政治性を有するものは裁判に服さない」というのでは、国民のいのちに関わる国家の重大な行為が憲法の枠外に置かれてしまい、国民(具体的には裁判所)が「国家の行為を憲法で縛る」という近代憲法の根本原理(立憲主義)を司法権が自ら放棄し、違憲審査制(81条)のたてまえと三権分立制の基本構造を崩壊させかねないという問題があります。この点、政治部門の多数決の方を重視するというのが最高裁の立場です。
 
 異例の飛躍上告の経過が、昨年4月30日の各新聞で明らかされ、大きな衝撃を与えました。すなわち、判決直後に、駐日アメリカ大使(ダグラス・マッカーサー2世)が、この判決の早期破棄に向けて岸内閣の外務大臣藤山愛一郎や最高裁長官田中耕太郎と接触、密談して判決の早期破棄を積極的に働きかけたことを示す、同大使の国務省宛て秘密電報14通が、国際問題研究者新原昭治によってアメリカ政府解禁文書の中から発見、入手されたことが大きく報道されました。田中長官は、訴訟の関係人ないし準当事者ともいうべき立場に立つアメリカ政府の大使と密談し、審理の見通しを述べる形で早期結審ひいては違憲判決の早期破棄を「約束」したに等しい発言を行い、実行していたことになります。これは、日本の命運を決する重大問題について、司法権の独立(76条)、さらには最高裁自ら述べている「主権国としてのわが国の存立の基礎」である日本の主権(対外的独立性)に関わる問題です。
 
 憲法は何のためにあるのか、司法は根本のところで誰(外国を含む)のためにあるのかを将来に渡って問い続ける重大な判例です。
 
U 皇太子の結婚

59年4月、皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子の結婚式(「結婚の儀」)が行われました。前年の11月、二人の婚約が発表されると、日本中に興奮が走りました。皇族か五摂家という特定の華族から選ばれる皇室の慣例を破り、日清製粉の社長令嬢とはいえ「平民の娘」が雲の上の存在と思われていた皇室に入ることになったからです。しかも2人はテニスコートで知り合い「自由恋愛」で結ばれたというエピソードは、血筋の違いを超えた愛という普遍的な物語の共有として皇室を身近に感じさせることとなりました。婚約記者会見で初対面の印象を聞かれた彼女の皇太子評「ご清潔で、ご誠実で」は流行語になり、彼女がテニスで着ていた白地のVネックセーターやヘアバンド、カメオのブローチなどのいわゆるミッチースタイルと呼ばれたファッションが大流行しました。
 
 2人の結婚は、それまでの家父長的な天皇制のイメージを、新憲法の象徴天皇制にふさわしいものに変える大きな転機となりました。しかし、「ミッチー」と呼ばれたのは結婚まででした。「平民」から「皇族」への変化に対応して「美智子様」になりました。同時にはちきれんばかりの健康美に輝いていたミッチー自身にも変化が生じました。それは、「象徴」となったとはいえ、厳として続く「天皇制」が「人間美智子」に与えた変化でした。皇族に対する憲法の適用は大幅に制限されています。一人の人間を個人として最大限尊重することを目的とする憲法の原理と皇室の原理の狭間で、美智子皇后、、そして雅子妃はどのような思いで過ごしておられるのでしょうか。