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1960年

 
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新安保条約の成立と反対運動
H.T.記

 1960年は、新日米安全保障条約によって今の日本の政治、軍事、そして経済のあり方を確定した歴史的な年です。社会運動が時の政治を左右したという意味でも空前絶後の年になりました。

 もっとも、戦後日本の政治経済の基本構造自体は、51年の単独講和及び同時に調印された(旧)日米安全保障条約で決定されました。05年7月19日付けの日本経済新聞によれば戦後政治で重要な出来事のトップは旧安保条約の締結であり、日本国憲法の制定が第2位となっていることは、このことを端的に示しています。「極東のスイス」(永世中立国)を目指していた日本は、50年の朝鮮戦争の勃発で戦後5年目にして早くもアジアの戦争を支援する「反共の砦」に変身しました。この戦争では日本の全土の米軍基地が最大限利用されました。この基地提供の義務を制度化したのが旧安保条約で、軍事的には占領時代と変わらない状態が継続しました。軍事同盟とはいっても、「極東における平和と安全の維持に寄与」する目的(第1条)を持つ、アメリカに対する基地貸与の性格が中心の条約でした。要点は、これによって日本の軍事的な対米従属が決定されたことにあります。

 新安保条約も、アメリカが極東戦略上日本を基地として利用するという基本的な性格は変わっていません(第6条)(浦部法穂「憲法学教室」)。そして、第5条で、日本とアメリカは、日本自体だけでなく、極東に出動する在日米軍基地が攻撃された場合も、ともに戦争を行なうことが義務づけられました。自衛隊がアメリカの軍事戦略の中に位置づけられ、日本が知らないアメリカの戦争に日本は自動的に巻き込まれることになります。この点を批判されて、条約とは別の交換公文によって、米軍の配置の重要な変更等の場合は、事前に協議することが約束されました。しかし、これまでこの協議がなされたことは一度もありませんし、核兵器積載艦・航空機の通過には事前協議は適用しない旨の密約が存在します(政府は存在を否定)。新条約は更新されて今日まで続いています。 

 この条約の第2条が語られることは少ないのですが、極めて重要です。第2条(経済的協力の促進)は、「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」などを規定しています。これらは、近年の新自由主義(経済面での市場原理主義)の実行や、「年次改革要望書」などアメリカ主導の経済政策の実施となって現れています。軍事面の従属は経済面のそれと密接に結びついています。憲法25条が生存権を掲げ福祉国家への道を開きながらも、北西欧型福祉国家でなく、アメリカ型に引きずられた経済社会政策が採られているゆえんです。9条に関わる問題と25条に関わる問題は関連しています。

 「同盟関係というものは、弱い方はわなにかかる。弱い方は最大限手を貸す。強い方は、自国の利益のためには相手を切る。放棄する。」という指摘は、同盟関係のポイントを突いています(07年10月4日明治大学で行われた名古屋大学・愛敬浩二教授の講演)。

 このような重大な国策を決めた安保条約は、当然ながら、国民の強い反発を呼びました。「安保改定阻止国民会議」は59年3月に結成されていましたが、60年1月の日米交渉妥結で反対運動が一気に全国に広がりました。条約反対という反戦的な運動が主軸ですが、5月の衆院の特別委員会における警官隊を導入しての質疑打ち切り・強行採決、あるいは本会議における討論なしの単独可決は、重大な国政の決定に対する民主主義の重大な危機ととらえられ、以後民主主義を守る運動としての色彩を強めました。6月の4日には560万人を超える組合員がストに入り、2万の商店がシャッターを下ろしました(閉店スト)。同月15日、580万人のストと共に、13万人の国会請願デモの際、警官隊の暴行によって多数の負傷者を出し、大学生樺美智子が死亡すると、反対運動は頂点に達します。

 安保条約は、参院で実質審議が行われることなく、6月19日に自然成立し(憲法61条)、同23日、批准・発効しました。しかし、岸内閣は、混乱の責任を取って翌7月、総辞職しました。国民の積極的な意思表示の行動によって内閣を退陣させたという意味では民主主義にとって歴史的な意義を持ちました。同時に、岸信介に代表される戦前の政治家による強権的な政治の続行は不可能となりました。