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1966年

 
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全逓東京中郵事件最高裁判決と内閣の人事政策・司法反動
H.T.記

 資本主義の時代にあって各国の労働者は激しい闘いを経て、労働条件の切下げに抗し、生活を向上させるために不可欠な権利としての労働基本権を獲得してきました(憲法28条)。この労働基本権は、法制上認めらるに至った後も、その行使を巡る攻防は政治的、社会的に極めて重大な、ある意味で核心的な問題として位置づけられています。日本は、先進資本主義国の中では、国際労働機関(ILO)からの度重なる厳しい勧告も無視して公務員等に対する労働基本権を厳しく制約し続けている特異な国です。

 1966年、最高裁判所は世間をアッと言わせました。核心的な問題についてそれまでの判例を変え、画期的に方向転換して国際水準に接近したからです(10月26日、全逓東京中郵事件大法廷判決)。今、郵便局は民営化され、職員は公務員ではなくなりました。その前の時代の話ですが、歴史的な裁判です。

 民間であれ、公務員であれ、勤務時間中に職場を離脱して仕事をしないことが許されないのは当然なことです。しかし、民間の場合争議行為としてなされた場合は、正当な行為として刑罰は科されません。しかし、旧郵便局など公共企業体の職員は、公務員と同じく争議行為は違法とされてきました。違反した場合、刑罰まで科すかは争われていました。最高裁は、公務員は「全体の奉仕者」(憲法15条2項)であることを理由に、争議行為を煽った者等に刑事罰を科すことを合憲としてきました(第1期)。しかし、「全体の奉仕者」であるということは、公務員は旧憲法時代と異なり「国民の使用人として一党一派に偏することなく国民全体に奉仕すべきであること」を意味するに過ぎません(浦部法穂「憲法学教室」)。

 66年の最高裁は、「全体の奉仕者」の理論を否定しました。判決は、公務員(及びそれに準じる者)も憲法28条の保障を原則的に受けるべきものだとしました。その上で、この権利の保障と国民生活全体の利益とを比較衡量して両者を調整すべきであり、権利の制限は必要最小限度にとどめるべきだとしました。この観点から、争議行為が国民生活に重大な障害をもたらすなどの例外的な場合を除いて、刑事制裁は科さないと判示しました(第2期の始まり)。原則として刑事罰から解放し、憲法、労働法、刑法などの学界の通説に追いついた判決であると高く評価されました。この判決の立場を踏襲・発展させたのが、69年の地方公務員に関する都教組事件、国家公務員に関する全司法仙台事件の最高裁判決です。

 あわてたのが政府です。最高裁の裁判官は内閣が任命します(89条1項)。司法の判断が政治の基本的な枠組みからはずれるのを防ぐことは、この制度によって可能とされてきました。しかし、政府にとっては想定外の判決が出たのです。従来、裁判官出身の最高裁裁判官は、基本的人権を尊重する少数意見を少なからず書いていました。実務的に優れた裁判官であることと、憲法感覚に優れた裁判官であることが一致する場合が増えてきていました。他の要素も重なり、66年のこの判決でついに人権を重視する最高裁判事が多数になりました。そこで、政府は最高裁の裁判官の人事政策を変更し、判事出身の裁判官を任命するに当っては、政府の意向に忠実な人をより厳しく選ぶことにしました。裁判官人事など司法行政事務を豊富に経験した裁判官が多数任命されるようになりました。

 その効果が現われてきたのは、73年の全農林警職法事件です。「雪どけ」とも評された第2期の判決の論理は全面的に否定され、再び公務員の争議権の全面的な否認に逆戻りさせられました。以後現在に至るまで長い第3期が続いています。第3期の主力となった裁判官出身の最高裁裁判官・最高裁事務総局は、憲法の理念を重視する下級裁判官に様々な圧力を加えるなど、司法行政面でも豪腕を発揮しました。司法権の独立(76条1項)は、三権分立、ひいて基本的人権や平和の保障の生命線です。今なお、重大な課題です。

 「全逓中郵判決を契機として、財界・政府・自民党などによる、司法に対する激しい政治的・思想的攻撃が開始された。その攻撃目標とされたのが青法協であり、裁判所は全体としてこれに対抗し切れなかった」「68年については、逮捕状請求につき0.20%、拘留請求について4.57%、‥‥が却下されたのに比して、30年後の97年になると、逮捕状請求につき0.04%、拘留請求について0.26%‥‥(いずれも司法統計による)に落ち込んでいる。捜査、取調べの側からの令状請求に対し、国家組織の中で司法的チェックを本分とする裁判所が独自の判断で「ノー」と言うことがほとんどなくなっているのであるすなわちそれは、裁判所が権力機関としての機能だけは急速に肥大化させながら、市民の権利を守る機能の方は徐々に無力化いていく「官僚司法」へと大きく脱皮、変貌していった経過と考えられる」(以上秋山賢三「裁判官はなぜ誤るのか」)。「1960年代末から70年代前半にかけて『司法の危機』、偏向裁判批判と呼ばれる出来事がある。偏向裁判批判とは、直接には。1967年ころから、雑誌『全貌』などのいわゆる『右翼的ジャーナリズム』や日経連タイムズなどの財界誌、さらには、自由民主党の機関紙『自由新報』などによりなされた69年4月の都教組事件最高裁判決を受けて、翌5月には自民党司法制度調査会が設置された」(萩屋昌志「日本の裁判所―司法行政の歴史的研究―」120〜121頁の要約)。