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1969年

 
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公害の多発 ― 現代の「いけにえ」を作った企業・政府
H.T.記

 1969年、鎮魂の文学「苦海浄土―わが水俣病」(講談社)が出版され、日本列島に激震が走りました。生後3か月から水俣に住んでいた主婦・石牟礼道子が水俣病の患者のようすを土語で克明に記録し、告発した書です。「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、42人死んでもらおう。奥さんがたにも。」(同書より)。石牟礼さんは、今も“語部”として“文闘”し続けています。
 この年は水俣病訴訟が提起された年でもあります。
 
 水俣病は、熊本県・水俣市の企業であるチッソの工場排水などに含まれるメチル水銀化合物が魚介類に蓄積されることによって起きた中毒性中枢神経疾患で、手足の麻痺、歩行困難、目や耳の不自由、知能障害等を伴い、重篤な場合は廃人になり、死に至ります。すでに戦前から「猫踊り病」などとして知られていましたが、53年に第1号患者が発生し、死者も出ました。政府が公式確認したのは56年です。熊本大付属病院は原因は工場排水にあると報告していましたが、国も県も排水を調査せず、調査をチッソに命じることもありませんでした。排水は、政府が水俣病を公害病として認定した68年まで続きました。長年に渡る政治と行政の放置政策が被害を拡大させました。

 水俣病の放置は、新潟県の昭和電工の工場排水による新潟水俣病を発生させました。これ以降、水俣市のケースを熊本水俣病、新潟県のケースを第二水俣病または新潟水俣病と呼ぶようになりました。この二つに加えたイタイイタイ病、四日市ぜんそくの四大公害訴訟はいずれも60年代後半に集中して提訴されました。「MINAMATA」「KOUGAI」は国際的な言語となりました。

 公害運動の先駆者の1人である宇井純は、公害の歴史を、@65年の新潟水俣病の発生までの、患者が少数者として社会の片隅に追いやられ無視された長い時期、A65年から75年頃までの少数派運動が全体を引っ張っていく時期、Bそれ以降の行政と政治の壁に対して患者が繰り返し挑んで跳ね返される時期の三つに分けています。この3つの時期を通じて、多数派は息をのんでいるだけであり、弱者の運動論はまだできていないと述べています(「この国のゆくえ」2006年 金曜日刊)。

 公害病対策が放置されたのは、経済の高度成長を優先させるという国家政策によるものです。旧通産省は、度々水俣病調査に介入し、工場の生産ラインに支障が出るのを防ごうとしました(吉見俊哉「ポスト戦後社会」)。国民の多数が求めたモノ中心の「豊かな社会」は、公害病患者の“いけにえ”と表裏一体の関係にあります。

 上記Aの時期には、運動の高まりを受けて、公害対策基本法が制定され、71年には環境庁も発足しました。2004年には「水俣病関西訴訟」(熊本、鹿児島両県の不知火海沿岸から関西に移り住んだ水俣病の未認定患者45人―うち15人死亡―が、国と熊本県に損害賠償を求めたもの)の最高裁判決がありました。対策を怠った国と県の責任を「「著しく不合理で、違法で、国家賠償法1条1項の適用上違法というべき」と認定し、損害賠償の責任を認めています。

 この判決を受けて、認定申請が爆発的に増えました。しかし、政府は、1977年に当時の環境庁が策定した厳しい認定基準に固執し、司法の判断を無視したままです。この基準は、76年に環境庁長官になった石原慎太郎大臣時代のもので、これ以降企業利益優先・環境行政後退期を迎えます。今国会に、与党は連名で「水俣病に関する特別措置法」を上程しました。この法案に対して患者団体は、「被害者を大量に切り捨て、保障水準も極めて低く、チッソの分社化により企業を免罪する」「沿岸住民の調査もしないまま加害者を救済する法案だ」と反発しています。放置する政治・行政・企業の責任は、実質的には私たち納税者の責任に帰します。

 「環境権」など新しい人権を憲法に明記することは、改憲論の柱の一つになっており、世論調査によると国民の支持もかなり高率です。しかし、この改憲を強く唱える人ほど、水俣病など現実の環境行政には冷たく、改憲は他の目的のための口実に過ぎない傾向が伺えます。環境権はすでに現憲法の13条や25条で保障されています。

 “現場では、まさに「終わらない闘い」が続いていることを忘れてはならない”。ノーモア・ミナマタ訴訟原告代理人の板井俊介弁護士(熊本県弁護士会)は記しています。詳しくは、日本全国憲法MAP熊本編(2)をご覧ください。