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1978年

 
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日米ガイドライン/A級戦犯の合祀
H.T.記

T 日米ガイドライン

 日米安全保障条約の締結以来、同条約と憲法との関係は、最高裁も追認した前者の優位の体制の下に推移して来ました。この関係を時代区分すると、第一期(51年からの旧安保期)、第二期(60年からの新安保期)、そして、78年からの第三期に分類できます(森英樹、水島朝穂他編「グローバル安保体制が動き出す」)。

 78年は、日米安全保障協議委員会の決定を受けて閣議了承した「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」が策定され、軍事史の画期となる年となりました。

 その特徴は、@安保が核安保であることは知られていましたが、アメリカの核の傘のもとにあることを最初に文書で示したこと、A日米安保が単なる日米間のものにとどまらず、アジア全域をおおうアジア安保、つまり集団的自衛権体制であることを確認したこと、B日本有事体制の本格的登場にあります(渡辺洋三「社会と法の戦後史」)。

 その背景には、73年のオイル・ショックはアメリカの経済的、軍事的地盤の低下を明確にし、アメリカは世界戦略の補完の強化をNATO諸国や日本などに求めたことがあります。日本のいわゆる「思いやり予算」もこの年から始まりました。また、日本側の事情として、日本企業の多国籍的進出は1970年代末から本格化し、海外資本投下が活発に行われ、企業の権益を保護するためにも、自衛隊の海外出動に対する要求が強まったことがあります。

 このような重大な政策転換を国会の関与なしに進めたことは、国会中心主義を無視する国民不在の軍事外交として批判されました。なお、第四期は、90年の新ガイドラインの策定から始まります。

U A級戦犯の合祀

 東条英機元首相ら、14人のA級戦犯が、78年10月17日(秋季例大祭の前日)に靖国神社に「昭和殉難者」として合祀されました。職員にも緘口令を敷いていましたが、翌79年4月の新聞報道で明らかになりました(A級戦犯については、ときの話題と憲法・1948年「戦争犯罪人に対する裁判と天皇の責任」をご覧ください)。

 靖国神社は、天皇に忠誠を尽くして戦い死んで行った者を祭神としてまつる神社です。これに対して、東京裁判では、天皇にはアジア・太平洋戦争の責任がなく、配下の最高幹部クラスの責任者たちが侵略戦争を起こし遂行したことを理由に、「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」で裁き、処刑しました。東条らは、天皇に忠誠を尽くして戦争を遂行した者ではないとして、昭和天皇と「戦犯」を分離した構造の上に成り立っていました。

 靖国神社は、戦前は陸海軍省が共管していましたが、戦後は一宗教法人になりました。しかし、戦後も、厚生省援護局(当時)が戦死者の名簿を靖国神社に渡し、神社側が「祭神名票」を作って合祀していました。A級戦犯の名簿も、66年に厚生省から靖国神社に送られ、70年の崇敬者総代会で合祀が了承されましたが、「宮司預かり」となっていました。当時の筑波藤麿宮司の在職中は実施されませんでした。

 しかし、78年から宮司となった松平永芳氏(元海軍少佐・一等陸佐・祖父は福井藩主松平慶永)は合祀を強行しました。氏は、その動機を次のように述べています。「私は就任前から、『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで、就任早々…思いきって、14柱をお入れしたわけです」(『諸君』92年12月号)。先の戦争を「自存自衛」「アジア解放」の「正しい戦争」だと評価する立場です。もっとも、合祀は松平氏だけの個人的な意思によるものではなかったと見られています。保阪正康氏は、松平氏の宮司就任自体が、靖国神社崇敬者総代会(賀屋興宣東条内閣蔵相、青木一男同大東亜相ら元A級戦犯らで構成)の意思によるものだったと想像しています(雑誌「世界」06年9月号)。

 この合祀に対しては、侵略戦争を否定する東京裁判の歴史認識に真っ向から反するものとして、国民の間からも、アジア諸国からも強い批判の声が上がりました。また、そもそも、日本国憲法の下においても厚生省が名簿をや靖国神社に送付していたことは、政教分離(憲法20条3項)に違反する行為です。

 06年年7月20日、88年当時の宮内庁長官だった富田朝彦氏が昭和天皇の発言・会話をメモしていた手帳に、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことを示す発言をメモしたものが残されていたと日本経済新聞の1面で報道され大きな衝撃を与えました。メモでは、「だから私(昭和天皇) あれ(合祀)以来参拝していない それが私の心だ」とも記しています。昭和天皇にとって、東京裁判は、自身の責任を否定し、それゆえに、戦後も「国体」の護持を可能にすることにもつながった、妥協できない決定的なものだったことが、再確認されました。

 A級戦犯を合祀したままでよいか、分祀すべきかの議論は、現在に至るも闘わされています。