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1982年

 
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中曽根内閣の成立と「戦後政治の総決算」
H.T.記

 この年の末、長らく総理候補として取りざたされてきた「三角大福中」の最後の中曽根康弘氏が田中角栄元首相の支援を受けて総理大臣に就任しました。5年間に及ぶ長期政権となりました。氏は、就任後の国会での施政方針演説で、「日本は今、戦後史の大きな転換点」にあると強調し、「従来の基本的な制度や仕組みをタブーなく見直す」と述べました。
「戦後政治の総決算」路線です。

 「戦後政治の総決算」とは何か。その意味としては政治内容が論じられることが多いのですが、氏自身は「自省録―歴史法廷の被告として―」(04年 新潮社)の中で、「戦後政治の総決算」の真意は、「調和とコンセンサス」という事なかれ主義の政治の悪弊を断ち切り、強力なリーダーシップを持った総理大臣という政治手法にあると記しています。総理大臣の「首長」性を最大限大統領型に運用したものです。
 また、大衆民主主義社会において直接国民に政策を訴えることを重視し、ポピュリズムとも評されました。

 この手法は、中身としての「戦後政治の総決算」を進めるうえで有効でした。80年代になり、ケインズ的な経済政策は経済成長を阻害するとして、レーガンやサッチャーは新自由主義の政策に転じましたが、中曽根内閣もそれに近い路線を採りました。その中心は、中曽根氏自身が鈴木内閣の行政管理庁長官として担当してきた「第2臨調」の答申の具体化です。政府規制の緩和、「民間活力の活用」と称する日本国有鉄道など3公社の民営化、社会保障の後退を実行しました。

 第二に、軍事化を進めました。前任の鈴木善幸首相は日米安保条約は軍事同盟ではないとしてハト派的な側面を有していましたが、中曽根氏は就任早々訪米し、レーガン大統領との会談で「日米両国は運命共同体」であるとの認識を示し、ソ連の侵攻がある場合は日本列島を「浮沈空母」にし太平洋に通じる3海峡を封鎖すると発言しました。また、日本は武器輸出禁止政策を採っていましたが、アメリカの要請に答え、「安保条約を優先させる。同盟国たるアメリカに対して技術協力することに何ら問題ない」(上記「自省録」参照)と
して、アメリカに限っては技術供与を解禁しました。さらに、アメリカの求めにより、大蔵官僚の強い抵抗を排除して、防衛費を大幅増額させました。サミットでも、アメリカ主導による西側の軍事力強化を側面支援しました。

 第三に、戦後の首相として初めて靖国神社を公式参拝するなど、復古的な思想を実行に移しました。
 
 中曽根氏は、「政治の究極の目的は文化に奉仕するにあり」を信条としています。「文化」の具体的な内容は、「日本の歴史伝統の枠としての『天皇制』」のようです。
 氏は、エリートの道を歩み、23歳で海軍主計中尉として部下2000人余を率いてフィリピンで戦い、多くの戦友を失いました。そのときのことをこう記しています。「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた2000人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じりけのないほんものと、身をもって感じました。『私の心の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです」(「自省録」、柳本卓治著「『中曽根康弘』語録」)。 
 主宰する世界平和研究所の「憲法試案」(05年1月発表)の前文冒頭は、「我ら日本国民は‥‥天皇を国民統合の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた」、第1条は「天皇は、国民に主権の属する日本国の元首であり、国民統合の象徴である」と記しています。