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1985年

 
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プラザ合意
H.T.記

 20世紀末の日本経済は、80年代後半のバブル経済と、90年代のその崩壊による「失われた10年」で彩られます。その端緒となったのが85年の「プラザ合意」だと言われています。
 「プラザ合意」は、85年9月、ニューヨークのプラザホテルで開かれたG5でなされました。為替市場は、アメリカ経済の相対的な弱化を受けて73年から変動相場制に移行しましたが、80年代のドル高は、アメリカにとっては好ましくないものでした。78年には1ドル176円も記録しましたが、85年には263円にまで上っています。そこで、同年、レーガン政権の強力な要望により、ドル安=円高・マルク高の方向に各国政府が協調介入する旨を取り決めたこの合意がなされました。その背景を見ます。

 73年と78年の2度に渡るオイルショックは、エネルギー資源のほとんどを海外に依存する日本経済にとっては、とりわけ大きな打撃要因となりました。しかし、日本は、リストラクチャリングと呼ばれる企業の再構築を実行し、省エネ努力、半導体などの技術開発で乗り切りました。しかし、そのために国家財政の赤字を拡大し、以後の日本は財政再建に乗り出さざるを得なくなっていました(第二臨調の設置)。

 一方アメリカも、財政赤字を拡大させていました。軍産複合体となっていたアメリカは、ソ連等に対抗するための軍事支出を増大します。そのうえ、所得税の大減税と投資減税で税収減となりました。
 また、貿易赤字も続いたままでした。投資を助長するために採られた上記二つの減税でしたが、その多くが消費や配当に回されました。短期の利益を追求する新自由主義的な行動です。それもあって、輸出競争力は強化されませんでした。反面、経営努力を実行した日本などからの輸入は増大しました。ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるゆえんです。

 ドルが高いのは、資金のドル離れの懸念とインフレ抑制のため高金利政策をとり続けたためでした。ドル高が続き、米商品の競争力はますます落ちて、85年のアメリカの経常収支は市場空前の1200億ドル近くの赤字になりました。一方で日本は世界最大の債権国になっていました。
 
 このような状況の中で、アメリカ国内では、特に日本の輸出に対する保護主義派と、ドル高の是正という通貨政策転換派に分かれましたが、後者が優勢になりました。保護主義を避けたい日本の輸出企業にとっても、ある程度のドル安=円高であれば、後者が受け入れやすい選択でした。

 このようにして、プラザ合意に向けての準備は日米間で進められ、合意の直前になってヨーロッパの3国(英、仏、西独)が加わりました。先月末、アメリカと中国の戦略・経済対話(SED)が開催され、早くも「G2」という言葉を使用するメディアも現れましたが、このときは米日によるG2とも評されました。

 プラザ合意の成立を見て、アメリカは為替レートの面ではドル高の全面修正を各国に求めました。日本に対する市場開放と内需拡大の要求も強まりました。新聞には、「構造的内政干渉」の文字が躍りました。
 
 ドル安に向けた協調介入の結果、円は急騰しました。政府は、対内的には内需拡大による景気浮揚策を採ります。空前の超低金利政策や臨調路線に反する国債の増発です。86年には3兆円、87年には5兆円の公共投資も追加され、バブル経済へと突入して行きます。