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1990年

 
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湾岸危機・湾岸戦争―戦争報道と日本
H.T.記

 1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻・占領し、8日その併合を宣言しました。いわゆる湾岸危機の始まりです。主権国家を侵害する侵略行為であることは明白でした。
 しかし、背景は複雑です。第一次世界大戦後の1921年、オスマン帝国に勝ったイギリスは委任統治領としてイラクを成立させる一方、同年から23年にかけてクウェートの地帯をイラクから分離し、61年に独立させました。80年〜88年のイランとの戦争で疲弊したイラクは、平和裡に経済再建する環境を構想していました。しかし、クウェートはイラクに経済制裁・経済戦争をもって臨み、国境をイラク側に移動させ、アメリカから供与された技術でイラク領土内の油田を盗掘するなど、挑戦的でした。これは、クウェートは本来自国領だったという従来からあったイラクの感情に火をつけ、侵攻の理由として主張されました。
 
 安保理は直ちに即時無条件の撤退を要求し、経済制裁を決定しました。平和的な解決を求める国際世論も多く、湾岸諸国の多くは対イラク武力制裁に反対でしたが、安保理はアメリカなどの多国籍軍に武力制裁の権限を委任する決議を採択しました。翌91年1月17日、多国籍軍はイラク軍に対して攻撃を開始、湾岸戦争が始まりました。多国籍軍は大規模な空爆と地上攻撃でイラクを圧倒し、イラクのフセイン大統領は2月27日に敗北を認め、3月3日には暫定停戦協定が結ばれ戦争が終結しました。

 アメリカは世界最大の原油埋蔵量を誇るペルシャ湾岸で支配権を確立するため、早い段階からこの地域における武力行使も辞さないとして軍備を増強していました。今日まで至る一貫した軍事介入策です。きっかけは、73年〜74年の「オイルショック」でした。75年にはキッシンジャー国務長官が戦争の準備があると述べ、80年にはカーター大統領が「武力行使を含むあらゆる手段による敵対勢力の排除」声明を出し(カーター・ドクトリン)、ペルシャ湾に緊急展開部隊を常時展開しました。89年後半には、アメリカはイラクとの全面戦争に備える作戦立案を開始しました。翌90年8月2日のクウェート侵攻の2日後には、ブッシュ大統領は作戦計画1002−90の遂行準備開始を命じました。(マイケル・T・クレア「世界資源戦争」)。

 「米国政府は、まずクウェートの王族を利用してイラクに侵攻を行わせるように仕向け、次にこの侵攻によりイラクに対し大規模な攻撃を行う大義名分を得ようと考えていた。」(ジョンソン民主党政権の司法長官ラムゼー・クラーク「ラムゼー・クラークの湾岸戦争 いま戦争はこうして作られる」)。

 湾岸戦争は、平和的な解決を原則とする国連憲章の観点からも大きな問題がありました。安保理は多国籍軍に広範な武力行使の権限を付与し、しかも安保理の監督を放棄しました。戦争直前にフランスが提案しイラクが承諾した、イラクのクウェートからの撤退を含む和解案は無視され、経済制裁の効果も見ずに戦争に突入しました。さらに、米軍はイラクを撤退させるにとどまらず、イラク国土を深く攻撃しました。冷戦終結後の国連の変化―アメリカの力の増大―の始まりを示すものでした。

 湾岸戦争の特徴は情報作戦の発展でした。情報操作だけなら以前からありました。ベトナム戦争後のアメリカは、報道の主役となったTVを使い、情報の「パッケージ」「洪水による操作」の手法を研究開発し、湾岸戦争の開戦から数日間、TVはイラクの重要施設がアメリカのハイテク兵器によって華麗にピンポイント攻撃される映像を流し続けました。映像は軍からの提供でした。「プール取材」(代表取材)といわれる厳しい報道統制も敷かれ、爆撃の93%を占めたB52などによる人口が密集する都市に対する無差別爆撃やハイウェイの旅客バス攻撃などによる市民の多数の犠牲は隠蔽されました。放射性物質である劣化ウラン弾を使用した事実も報道されませんでした。逆に、「油まみれの海鵜」など、イラクによる環境破壊を非難する等の捏造した映像作戦で、動物愛護を含む世界の良心を味方に付けました(武田徹「戦争報道」、ラムゼー・クラーク上掲書等)。

 アメリカからの要請により、海部俊樹内閣は自衛隊の初の海外派兵となる「国際連合平和協力法案」を準備しましたが、激しい議論の末、廃案になりました。代わって、政府はアメリカの要請で総額135億ドルというおカネによる支援をしました。これも一種の参戦であり、憲法の理念に違反しているとの批判がありました。政府はさらに、ペルシャ湾に自衛隊の掃海艇を派遣しました。自衛隊法99条が根拠とされましたが、個別的自衛権を根拠とする同法に違反した初の海外出動となりました。

 自衛隊をめぐる従来の問題はその違憲性でした。しかし、この時から、国民の関心の焦点は海外派兵の問題に移りました。派兵の目的として「国際貢献」が謳われました。しかし、その実質は、資源の確保という大国の利益(「国益」)でした。

 直接に多国籍軍に守られたサウジアラビアとクウェートを除けば、日本が支払った金額は第1位でしたが、「国際社会」から「日本は血を流さない」という批判を受けたとされ、その後の日本のトラウマとなりました。「国際社会」の象徴として報道されたのが、クウェートが91年、2回に渡ってワシントン・ポストなどに掲載した約30か国に対する感謝広告の中に「日本」の名前がなかったことです。その理由の一つとして、日本が支払った金額の圧倒的な部分がアメリカに渡り、クウェートにはほとんど渡っておらず、さらに、各国から徴収した費用は実際には余っていて巨額のおカネが所在不明になっていたことが考えられます。海外では問題になりましたが、日本では報道されませんでした。全体として、マス・メディアは、「国際社会」の実態を検証しないまま報道しました。

 湾岸戦争は、「民主主義」の時代の戦争には、戦争を計画・実行する人間がいる空間とお茶の間という二つの「戦場」があることをこれまでになく痛感させる戦争になりました。