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1993年

 
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政治腐敗への怒りと細川政権の誕生/年次改革要望書
H.T.記

T 政治腐敗への怒りと細川政権の誕生

 今夏の衆院選で自民党が少数野党になりました。1993年7月の衆院選で過半数割れして以来のことです。変質を続けながらも38年間継続した「55年体制」は、この年ピリオドを打ちました。

 自民党が転落した原因は、バブルの崩壊やリクルート事件を契機にした相次ぐ政治腐敗に対する批判に基づく国民の「政治改革」への欲求にあります。88年、就職情報のリクルート社は、値上がりが確実な店頭公開直前の未公開株を、森喜朗、中曽根康弘、宮澤喜一、竹下登、藤波孝生氏等々首相級を含む多数の自民党実力者や塚本民社党委員長などに譲渡し、あるいは巨額の献金、パーティー券購入などを行い、政官財を揺るがす大事件となりました。92年には、東京地検特捜部が摘発した史上最大の特別背任罪とされる東京佐川急便事件が勃発して自民党最大派閥だった竹下派と暴力団との結びつきが明らかになり、翌93年には同派会長だった金丸信氏が18億5000万円の所得を隠した巨額脱税事件で逮捕されました。その捜査から、ゼネコンによるヤミ献金事件も次々に明らかになり、政治腐敗に対する国民の怒りは頂点に達しました。

 これに対して自民党内では、政治腐敗の背景には衆議院中選挙区制があるとして、小選挙区制への改正を中核とする「政治改革」をもって批判をかわそうとする勢力と、「改革」を先送りしようとする勢力(政府側)とに分裂しました。93年6月、自民党内の「改革推進派」と野党は宮沢内閣の不信任決議案を提出、可決されました。

 不信任案に賛成した自民党の議員は同党から離脱、「さきがけ」や「新生党」を結成しました。7月に行われた総選挙では「新党さきがけ」、「新生党」、「日本新党」の3保守新党は大躍進を遂げ、自民党は過半数を割る223議席に止まりました。もっとも、自民党も解散時の議席を1議席上回り第1党であることに変わりはなく、社会党がほぼ半減して一人負けしました。政治腐敗の根絶の声を「新しい保守」が吸収した結果となりました。

 総選挙後、3保守新党に社会・公明・民社・社民連・参院の民主改革連合によって「非自民・非共産」の連立政権が誕生しました。首相の座には、新生党の小沢一郎党首の強い押しで日本新党の細川護煕党首が就任しました。「保守政治の拡大」とも評されます(石川真澄「戦後政治史」)。

 細川内閣は、発足直後の支持率としては空前の75%〜83%の支持率を背景に、シンボルである「政治改革」として、衆議院の小選挙区比例代表並立制を実現させました(94年の話題に掲載予定)。細川内閣の成果は、これとコメに関する国内市場の部分開放でした。いずれも自民党政権が単独で実現しようとしてもできなかった大きな政治的な課題を非自民政権が実現した皮肉な結果となりました。

 細川首相は、人気は衰えていない94年4月、在任8か月で突如辞任しました。東京佐川急便からの1億円の借金の使途についての釈明に行き詰まったうえ、別の借金疑惑が出てきたという理由でした。

 その後新生党の羽田孜氏が首相となりましたが、最大与党の社会党が離脱、6月には自民党を中心とする新政権が発足しました。「非自民」政権が短命に終わった理由として、準備不足、主義が異なる8党もの寄せ集めによる内部対立、自民党による社会党の切り崩し工作などが挙げられています。

U 年次改革要望書

 日本国民の生活、経済、そして政治をめぐる環境は90年代後半以降激変しました。「自己責任」のかけ声の下、格差は拡大し、富裕層と貧困層に二極分化する傾向が続きました。しかし、これを生み出した大きな外圧である年次改革要望書について、主要なマスコミはきちんと触れてきませんでした。当然国民の大多数は盲目の状態に置かれました。

 1993年7月、宮澤首相とクリントン大統領の会談で、日本政府とアメリカ政府が両国の経済発展のために改善が必要と考える相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書を毎年交換することが決まりました。いわゆる「年次改革要望書」です。最初に作成されたのは2001年ですが、これに先行して「日本とアメリカ合衆国との間の規制緩和に関する対話に基づく双方の要望書」の枠組みが存在しました。アメリカ側からの要望として実現した例として、建築基準法の規制緩和、労働者派遣法の規制緩和、株主の短期的な利益を重視する会社法の改正、郵政民営化などが挙げられます。新自由主義や市場原理主義に基づく政策の具体化です。両国の国益は鋭く対立し、「内政干渉」であるとの批判もありました。日本の多国籍企業にとっては、アメリカの「国益」と合致するものが多数存在しました。グローバリゼーションの進展は国境の壁を低くしました。「国益」とは誰のどんな利益か、各国それぞれについて具体的に明らかにされなければなりません。