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中国「残留孤児」訴訟――(7)

M・K記

2005年8月30日(火)午前10時、東京地裁の大法廷(103号法廷)に約60人の原告が出廷、2人の原告本人尋問が行われました。昼休みを挟み、終了したのは午後5時でした。

冒頭、鈴木弁護団長が、大阪地裁判決(これについては、中国「残留孤児」訴訟(6)をご覧ください)を詳細に批判する意見陳述を行いました。

続いて、K・Hさんの原告本人尋問が行われました。以下に詳細を紹介します。
 
自分自身が日本人であるということは、1952年に、Kさんが中国公安局の取調べの対象とされたことから分かりました。養父の友人が、Kさんは日本人であると喋っていたのを聞いたそうです。これ以降、実の両親に会うことを望むようになりました。

養父母の下での生活は幸せではなく、朝3時に起床して牛の放牧に行き、その後は朝食の準備をはじめとして、近所の子ども達が遊びまわる中、ひたすら家事の手伝いをさせられました。その為、12歳になるまで小学校に通うことができず、小学校を卒業したのは18歳の時でした。ある時、重いものを引くように言われたものの、引くことが出来ず、養父に薪で殴られました。そのまま意識がなくなり、近所の人が助けてくれたために命拾いをしました。その他にも、養父はKさんに度々暴力を振るいました。当時は理由が分からなかったものの、今になって考えると、Kさんが日本語を話した時に殴られたようです。

Kさんが帰国できるかもしれないことを知ったのは、1980年頃になってからです。84年に同級生のIさん(原告の1人)の帰国を知り、北京の領事館に手紙を書くようになりました。そして1985年、ハルピンでの訪中調査に参加しました。自分が日本人である以上、実の両親を探したかったからです。帰国を家族に相談したとき、夫は反対しませんでした。Kさんは約150元、夫は約200元の月収があり、中国では裕福な生活を送っていました。しかし、両親を探したい一心から、帰国を決意しました。

91年7月、Kさんは、夫と次男と共に永住帰国しました。Kさんは日本で食事をするたびに、成人しており帰国が認められなかった長女と長男が何を食べているのか心配になりました。その後、友人・親戚から約16000元を借金し、翌年12月に2人を日本に呼び寄せました。借金は夫と少しずつ返済しました。

最初に住んだ千葉県市川市内の古いアパートは、風呂もなく、電気・水道・ガスは使える状態ではなく、家中がほこりだらけで、とても人が住める状態ではありませんでした。そのアパートに住みはじめた2ヵ月後、アパートは火事で全焼してしまい、中国から持ち帰った大切なものや、帰国後の定住費用で購入したもの全てを失いました。市役所に相談したものの、担当の係長に「あなたが、日本での生活が大変ならば、中国に帰ればよい」と冷たくあしらわれました。その後は、同市内の4.5畳2部屋と3畳部屋の県営住宅に引っ越し、一家で暮らしました。トイレは水洗ではありません。あまりにも狭いため、食事中に家族全員が座ることさえできませんでした。しばらくして清掃の仕事を始めましたが、毎日、朝8時から午後5時まで、遅いときは午後7時まで働いたために、肉体的にも辛く、1998年ごろから膝を悪くしました。現在でも曇りや雨の日には特に痛むそうです。

定年まで工場で働いた夫は、給料支払い時に金額が合わないといったトラブルが何度かありました。抗議をすると、会社の上司に「日本語が分からないなら中国へ帰れ、ばか!」と言われたそうです。そして、2人とも、退職金は支払われていません。

現在は、生活保護と年金で生活していますが、2人で月に12〜13万円にしかなりません。そこから家賃を支払います。生活保護費を受給しながら、中国を訪問する場合、その間は保護費の支払いが停止されます。その為、受給後は養父母の墓参りに行くことができません。また、日本語が喋れずに周囲から孤立してしまうことが何よりも辛いそうです。例えば、病院に行くにしても、子どもに仕事を休んでもらって付き添ってもらわざるを得ないため、子どもに負担をかけまいと、痛みを我慢することもあります。

現在、中国の大学を卒業した長女は、中国での経歴を生かすことは出来ず、アルバイトをしています。日本語を上手く話せない長男は肉体労働をしています。長男の汗にまみれたシャツを手にすると、子どもに隠れて泣くこともあるそうです。

最後にKさんは、日本政府に対しては、老後の生活のための政策を講ずることを、裁判所に対しては、歴史を直視し、事実を把握した上で公正な判断を行うことを希望する、と述べて、尋問を終えました。

次に、I・Tさんに対する本人尋問が行われました。
Iさんは、7歳のときに敗戦を迎えました。日本に引き揚げる途中、ソビエト軍の飛行機が目前に迫ってきたために、父親が車からIさんを降ろして、逃げる方向を指差しました。そのとき、機関銃の音がして、父親の目から血が吹き出ました。Iさんは泣きながらその場から走り去りました。この家族との別れの場面は、60年たった今も脳裏に焼きついています。

その後、中国人の老夫婦に引き取られました。毎日、豚と牛の世話ばかりさせられ、食事も満足に与えられませんでした。結局、そこを逃げ出し、別の家庭に引き取られました。学校には3年半通わせてもらえたものの、学校の同級生からは「小日本鬼子」と苛められました。

1957年から62年まで炭鉱で働いていましたが、ある時、公安局の関係部署が訪ねてきて、Iさんが日本人であることが職場の人に発覚しました。その後、役職や地位は降格、給料は下げられ、昇給もなくなりました。養母も地区の主任の地位を剥奪され、監視の対象となりました。

22歳で最初の結婚をしましたが、結婚相手も残留孤児であったことが結婚後に分かりました。彼女が日本人であることは周囲に知られていなかったため、Iさんは、彼女のことを考え、離婚しました。1965年に別の女性と再婚しましたが、Iさんが日本人であったため、文革の際に離婚されました。

日中国交正常化後も、日本政府から帰国についての打診はありませんでした。もし打診があれば、間違いなく早期に帰国していたでしょう。1979年に、日本大使館宛に、自分の状況・出身・特徴・家族構成を可能な限り記した手紙を書きました。沢山の手紙を書いたにもかかわらず、東京の情景と中国語による説明が書かれたパンフレット一通が送付されてきただけで、帰国に際して必要な手続きの説明や打診は、何もありませんでした。その後も、「残留孤児」としての証明書を求められたり、帰国に際しての身元引受人を求められるなどして、結局、日本大使館に手紙を書いてから、一時帰国が実現するまでに7年の歳月を要しました。

1994年にようやく帰国が実現しました。帰国後は、日本で生活するにあたって、生活指導員から一定のサポートをしてもらえるはずでした。しかし、Iさんを担当する生活指導員の女性は中国語が上手ではなく、筆談による会話を強いられました。大学受験のため夜遅くまで勉強していた娘を気遣って1800円のストーブを買ったとき、「日本は中国より暖かいからストーブは不要です。これは税金です。もし買うなら、まず私に相談しなさい。」と言われ、すでに成人していた次男の呼び寄せに対しては「国費ではないから関係ない。」と言われました。

何よりも、日本で生活するうえで最も辛いことは言葉の問題です。最初の仕事は、ある企業の下請会社で、2ヵ月後に正社員に昇格する条件で時給850円で採用されましたが、日本語を喋れないために認められず、しばらくして退職しました。また、2000年に交通事故を起こしましたが、Iさんは事故の状況を思うように説明できず、自転車に乗ったIさんから車にぶつかったとされ、Iさん側に55%の過失があるとされました。警察や保険会社の処理に不満を持っているそうです。右足を骨折し、完治するまでに2年間を要しましたが、事故から4月後に会社を解雇されました。

現在は家族5人で6畳・4.5畳・2畳の部屋に住んでいます。Iさんは、県外での活動ができない・宝石は所持してはならない・中国に戻る場合にはその期間中の保護費は支払われないといった生活保護受給の条件を受け入れられず、毎月3万円弱の年金及び約7万円のアルバイトで生計を立てています。現在6割以上の「残留孤児」の方々が生活保護を受給していますが、この場合、少なくない制約を受けることと引き換えなのです。

最後にIさんは、職場での人間関係がうまくいかないことや、病院での治療に際しての問題など、言葉ができないことに起因する問題に加えて、生活保護を受給しなければならないであろう老後の不安を述べ、尋問を終えました。

なぜ、Kさん・Iさんは、1945年に中国に取り残されたのでしょうか。なぜ、Kさん、Iさんは、日本に帰国するために、自力で奮闘しなければならなかったのでしょうか。なぜ、Kさん、Iさんは、帰国後も、困難な生活を、現在に至るまで強いられているのでしょうか。これら中国「残留孤児」問題の原因は、過去及び現在の日本政府の政策にあるのではないでしょうか。こうした問題について、政府及び裁判所は、真摯に向き合うべきであるように思われます。

次回の口頭弁論は、11月8日午前10時から午後5時まで、東京地裁103号法廷で開かれます。

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